若柴村(読み)わかしばむら

日本歴史地名大系 「若柴村」の解説

若柴村
わかしばむら

[現在地名]龍ケ崎市若柴町

牛久うしく沼の東の台地にあり、南は中島なかじま村、西は佐貫さぬき村。天正年間(一五七三―九二)に若柴民部が当地に居住と伝え(利根川図志)、同氏は同一六年に牛久城(現稲敷郡牛久町)城主岡見氏などとともに下妻多賀谷氏の攻撃を受けて滅んだ(多賀谷旧記)。若柴氏は字宿畑やどはたの若柴城に拠ったと思われる。元禄郷帳の村高は一千五一八石余。天和二年(一六八二)には旗本太田氏領で、牛久沼用水をめぐって川下六村(河原代・馴馬・龍ヶ崎・大徳・宮淵・幸谷)と水論があった(「牛久沼用水川払出入訴訟」木村家文書)幕末は前橋藩領一千三三八石余、金龍きんりゆう寺除地一五石余(各村旧高簿)

若柴村
わかしばむら

[現在地名]柏市若柴

手賀てが沼に流れ込む地金じがね(現大堀川支流)右岸に位置し、南西の下総台地上に小金こがね牧の高田台たかだだい牧が広がる。近代に入り同牧を開発して十余二とよふた村が成立。東は花野井はなのい村。寛永二年(一六二五)知行宛行状で旗本大沢正次に相馬そうま郡若柴村の四九石余などが与えられている。「寛政重修諸家譜」によると大沢氏は慶長九年(一六〇四)相馬葛飾かつしか二郡のうちに采地を賜っており、当地は同年から同氏領になったと推測される。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高六〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android