船町村(読み)ふなまちむら

日本歴史地名大系 「船町村」の解説

船町村
ふなまちむら

[現在地名]山形市船町・馬洗場うまあらいば割田わつた南田みなみだ高田たかだ塚野目つかのめ銅谷口どうやぐち長表ながおもて中道なかみち馬合ばあい服部はつとり八幡前はちまんまえ藤治屋敷とうじやしき内表東うちおもてひがし八ッ口やっくち中田なかだ北田きただ東田ひがしだ東篭野町ひがしかごのまち

中野なかの村の西に位置し、川の東岸の低平地に立地。六十里越街道沿いの街村。須川を渡ると向新田むこうしんでん村・達磨寺だるまじ(現東村山郡中山町)へと至る。願正御坊縁起(願行寺蔵)には、最上義光大石田おおいしだ(現北村山郡大石田町)と中野・船町間の舟往還を開いたとき立村したとあり、一説には天正一二年(一五八四)山形城の外港として立村されたという。それ以前は西中野村とよばれたともいわれるが、江戸時代には船町河岸が発達し、山形城下の外港、船津駅場として重要な役割を果した。

最上氏改易後は山形藩領、延享三年(一七四六)下総佐倉藩領、寛延二年(一七四九)肥前島原藩領、安永三年(一七七四)再び佐倉藩領となる。

船町村
ふなまちむら

[現在地名]黒田庄町船町

田高たこう村の北東に位置し、村の中を加古川南西流する。地名は加古川(田高川)舟運の船座や船着場があったことによる。舟町村とも記す。古くは田高村の一部で、慶長一八年(一六一三)西村伝入斎によって「大河原場所」が開発されたのに始まり、元和六年(一六二〇)には高三六石余となったと伝える(黒田庄町史)正保郷帳では「田高領之内」と肩書されて船町新田がみえ、高三六石余、幕府領。延享三年(一七四六)三草藩領となり幕末に至る(「丹羽氏系譜」東京大学史料編纂所蔵、慶応四年「丹羽氏知行目録」池田家文庫)元禄郷帳では船町とあり、高一〇六石余。延享三年の村明細帳(三草藩陣屋文書)によれば高一〇六石余・反別一四町九反余、網役あり、農間に舟乗り・筏乗りをし、氏神は田高村の春日大明神、ほかに観音堂・辻堂がある。

船町村
ふなまちむら

[現在地名]加古川市八幡町船町やはたちようふなまち

しも村の北に位置し、北東は印南いなみ国包くにかね村、西は加古川に接する。舟町村とも記し、船町ともいう。慶長国絵図に「舟町村」とみえる。正保郷帳によれば田方二七石余・畑方一五石余。宝暦一四年(一七六四)の村明細帳(船町町内会文書)によると高五六石余・新田高二一石余、小物成は犬米・草藁銀、御林運上銀、家数三五・人数一六〇(うち大工四・木挽六・鍛冶一)、牛九、渡船一、郷蔵一。木綿・茶・大豆・小豆・蕎麦などを栽培している。愛宕神社があり、氏神は加古川を挟んで対岸印南くち村の上之荘かみのそう神社である。慶安四年(一六五一)滝野たきの(現滝野町)から高砂までの舟賃は一艘につき米四斗、姫路藩の御役船については粮米一斗五升、その他の川並御用は一日一斗二升五合と従来より定められていると船頭三名は他村の船頭らとともに大庄屋へ上申している(「加古川筋高瀬舟一件」畑家文書)

船町村
ふなまちむら

[現在地名]豊岡市船町

宮島みやじま村の南、円山まるやま川東岸に位置する。舟町とも記し、中世に河湊として集落化し地名を生んだと伝える。江戸時代の領主の変遷は立野たちの村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に「舟町」とみえ、高八八石余。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高一七〇石余。寛政(一七八九―一八〇一)頃の時代記録帳(松島家文書)では高九四石余、ほかに野田庄船町村分七八石余があり、小物成は茶穀等米四石余・桑役銀二二五匁余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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