舟見村(読み)ふなみむら

日本歴史地名大系 「舟見村」の解説

舟見村
ふなみむら

[現在地名]入善町舟見

黒部川右岸河岸段丘上にあり、東は棚山野新開たなやまのしんかい(現朝日町)、北は舟見野ふなみの村、南は明日あけび(現宇奈月町)、西は愛本新あいもとしん(現同上)近世宿場で、南北に延びる北陸街道(上街道)に沿って家が立並ぶ。元禄一五年(一七〇二)の新川郡邑名来歴(下新川郡史稿)には「此村海上はせ船見え申に付、舟見村と申由申伝候」と記される。「越中国船見・山崎両村」は文和二年(一三五三)清浄覚という者によって鎌倉円覚寺黄梅おうばい院に寄進され、二年後には不知行になっている(至徳元年四月日「黄梅院文書目録」黄梅院文書)。永正一〇年(一五一三)八月吉日には舟見村と山崎やまざき(現朝日町)の伊勢神宮の道者職が五貫文で売却されている(「道者売渡状」神宮文庫蔵輯古帳)

舟見村
ふなみむら

[現在地名]養老町舟見

小倉おぐら村の南、津屋つや川右岸にある。西は若宮わかみや村。地名津屋川を上下する舟の状況を見た地であることに由来するという。津屋川河岸に土場どばと称する船着場の跡が残る。慶長郷帳に村名がみえ、高四一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳によると徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳には船見村とあり、大垣藩領。すべて畑方で四二石余、二斗の野年貢があった。元禄郷帳でも同藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳では高七四石余で、反別は田一町八反余・畑三町余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報