臼杵城下(読み)うすきじようか

日本歴史地名大系 「臼杵城下」の解説

臼杵城下
うすきじようか

[現在地名]臼杵市臼杵唐人町とうじんまち掛町かけまち横町よこまち浜町はままち畳屋町たたみやまち本町ほんまち田町たまち新町しんまち本丁ほんちようはま洲崎すさき祇園中ぎおんなか祇園西ぎおんにし福良ふくら 平清水ひらそうずなど

臼杵湾に島状に突き出た臼杵城の南西にあり、臼杵川河口右岸の小沖積地に立地する。東は海、北から西は臼杵川河口部にあたり同川西岸の市浜いちはま村に対する。大友義鎮(宗麟)が築いた丹生島にゆうじま城の足下に形成された城下町で、大友氏の海港として外国貿易などにより発達、中世城下町として知られていた。

〔中世の臼杵〕

現在の臼杵・二王座におうざ海添かいぞえ・福良・戸室とむろ江無田えむた諏訪すわおよびその周辺に比定される。当初は大友氏一五代親繁の菩提寺心源しんげん寺、一六代政親の菩提寺海蔵かいぞう寺のあった戸室地区が中心であったと考えられる。しかし毛利水軍に対応するため良港を臼杵に求めた義鎮は、弘治二年(一五五六)以前に丹生島への築城を始めたらしく、小原鑑元・佐伯惟教らの反乱に際しては丹生島に退避している(一五五七年一〇月二九日「ビレラ書簡」イエズス会通信)。翌三年五月二一日には「大友殿御座スウスキ」が焼失している(「某手日記」永弘文書)。永禄六年(一五六三)には宗麟の臼杵移転は完了しており、ルイス・ダルメイダは七月二七日臼杵で宗麟と会見している(一五六三年一一月一七日「ダルメイダ書簡」イエズス会通信)。同八年には豊後のキリスト教徒大部分が臼杵に移住し、礼拝のための会堂建設も始まった(一五六五年一〇月二五日「ダルメイダ書簡」同通信)。キリスト教に理解を示した宗麟ではあるが、次子親家のために京都大徳寺怡雲宗悦を開山に寿林じゆりん寺を建て、自らも怡雲について座禅を行っている(一五七一年九月二一日「バウチスタ書簡」同通信)。一五七八年(天正六年)七月二五日、宗麟は司祭館で洗礼を受け、教名フランシスコを許された。これより先、宗麟は正妻奈多氏と離婚し、正妻の侍女(三男親盛の嫁の母)とともに丹生島城を出て五味ごみ浦に隠れたという。同年秋、キリスト教的理想国家建設を夢みて日向侵攻を敢行するが、高城・耳川合戦で大敗し、天正一四年の島津軍の豊後侵入を招いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の臼杵城下の言及

【臼杵[市]】より

…人口3万6614(1995)。豊後水道西岸最北部の湾入臼杵湾に面し,湾頭の臼杵川河口の旧臼杵城下町を中心に市街地が発達している。明治以降,北海部地方の政治・経済の中心として栄え,1909年日豊本線が通じた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」