自我心理学(読み)じがしんりがく(英語表記)ego psychology(英),psychologie du moi(仏),Ich Psychologie(独)

最新 心理学事典 「自我心理学」の解説

じがしんりがく
自我心理学
ego psychology(英),psychologie du moi(仏),Ich Psychologie(独)

自我心理学というとフロイトFreud,S.により創始された精神分析の流れをくむものとみなされることが多い。だが,小此木啓吾(2002)によれば,自我心理学は,必ずしも精神分析的自我心理学のみを意味するわけではなく,一般心理学においてすべての心的現象や心的機能を自我との関係において記述し理解しようとする心理学を自我心理学という。後者は,あらゆる心理現象を自己に関連づけて理解することにより,自己の構造や機能について解明しようという自己心理学self-psychologyに通じるものである(榎本博明,2008,2011)。ここには,自我egoおよび自己selfの定義の問題も複雑に絡んでくるが,一般に心の統合機能を指すには自我が用いられ,自らについての内的表象を指すには自己が用いられることが多い。たとえば,エリクソンErikson,E.H.は,アイデンティティに言及するにあたって,自我の統合機能を重視する場合は自我アイデンティティego identityを用い,主観的体験を重視する場合には自己アイデンティティself-identityを用いた。さらに自己心理学といえば,精神分析的自我心理学の流れをくむコフートKohut,H.の精神分析の一学派としての自己心理学もある。

【精神分析的自我心理学の流れ】 フロイトの定義した自我egoの概念に基礎をおくのが精神分析的自我心理学であるが,これはフロイトの娘アンナ・フロイトFreud,A.やハルトマンHartmann,H.がフロイトの後期思想を整理・発展させることによって確立されたものとみられる。フロイトの精神分析では,1920年以前と以後で大きな違いがあるとされる。1920年以前には,エス無意識を明らかにすることが精神分析の課題であったが,1920年以後になると,自我の構造を明らかにすることが課題となった。つまり,もともと精神分析は深層心理学と同義にとらえ,無意識,前意識,意識といった概念を用いて,抑圧された衝動や感情,空想など無意識を研究する心理学であった。ところが,『快感原則の彼岸』(1920),『集団心理学と自我の分析』(1921)においてフロイトは,新たな精神分析の方向性を示した。すなわち,自我を中心に据え,それがエスや超自我,さらには外界とどのような関係にあるかを明らかにすることが精神分析の課題とされ,自我の精神分析的研究の端緒が開かれた(Freud,A.,1936)。さらに晩年のフロイトは,『終わりある分析と終わりなき分析』(1937),『精神分析学概説』(1940)において,精神療法における治療者と治療契約を結ぶ正常な自我,エスや超自我あるいは現実の要求に受動的に対応するだけでなく自律的に機能する自我について言及している。この後期フロイトの自律的な自我のとらえ方が自我心理学の流れを導いた。精神分析的自我心理学を確立したとされるハルトマンは,知覚や思考などエスや超自我あるいは外界との葛藤に巻き込まれない自我の働きに着目し,それを葛藤外の自我領域conflict-free ego sphereの自我機能とし,エスや超自我,外界に対して主体性をもつという意味で自我自律性ego autonomyというとらえ方をした。これは,晩年のフロイトの自我のとらえ方を引き継いだものといえる。

【エリクソンのアイデンティティの心理学】 フロイトを継承したハルトマンによって確立された精神分析的自我心理学は,あくまでも本能など生物学的な要因を重視するものであった。エリクソンは,そこに社会・文化的な要因を加えて,人間の歴史的存在としての側面を強調し,社会との相互作用において自我あるいは自己の発達をとらえようという心理社会的発達理論を提唱した。ラパポートRapaport,D.(1959)は,各発達段階における心理社会的危機に対して効果的に作用し,生涯を通じてのアイデンティティ形成を支える自我の統合力を重視するエリクソンを精神分析的自我心理学の継承者と位置づけている。エリクソンは,生涯にわたる心理社会的発達を8段階でとらえようという漸成図式を提唱している。そこでは,乳児期から老年期に至る個人の生涯を八つの発達段階に分けているが,個人はそれぞれの発達段階において新たな心理社会的危機psychosocial crisisに直面する。それは,基本的信頼対不信,自律対恥・疑惑,自主性対罪悪感,勤勉性対劣等感,アイデンティティ(同一性)対アイデンティティ混乱,親密性対孤立・孤独,世代継承性(生殖性)対停滞,統合対絶望の獲得もしくは確立を挙げている。

 アイデンティティidentityは,精神分析用語としてエリクソンにより初めて導入され,当初は青年期の心理社会的課題を意味するものとして用いられた。だが,その後,生涯にわたる自己形成の核となるものとみなされるようになった。エリクソン(1959)によれば,アイデンティティとは,「自我が特定の社会的現実の枠組みの中で定義されている自我へと発達しつつある確信」であり,「自我のさまざまな総合方法に与えられた自己の同一と連続が存在するという事実と,これらの総合方法が同時に他者に対して自己がもつ意味の同一と連続性を保証する働きをしているという事実の自覚」である。すなわち,アイデンティティには,自分自身の一貫性・連続性の感覚といった側面と,属する社会の成員としての役割獲得・連帯感といった側面がある。個人の発達上の問題として重要なのが,属する社会にふさわしいアイデンティティの確立である。変動の激しい社会になって,社会が不安定さを増すにつれて,アイデンティティの安定を失うアイデンティティ拡散identity diffusionが蔓延するようになった。日本における1990年あたりからのフリーターの急増,その後の引きこもりの深刻化,早期離職の問題なども,アイデンティティ拡散の問題としてとらえることができる。青年期は,アイデンティティ形成のための試行錯誤の時期であり,そのために社会的義務が緩められ自由に漂うことが許される期間であるという意味で,モラトリアム期間(猶予期間)とされる。モラトリアムmoratoriumというのは,もともと支払猶予を意味する法律用語であったが,エリクソン(1950)が青年期の心理を特徴づける精神分析用語として転用したものである。

 エリクソンによるアイデンティティおよびモラトリアムの概念は,精神分析学の枠を超えて,現代人の心理的発達を検討する上で不可欠の心理学用語となっている。ただし,情報化を代表とする技術革新により社会の流動性が非常に高まっている現代において,アイデンティティ形成の過程にも従来想定されたものとは異なる様式があり得るのであり,アイデンティティのとらえ方の再検討も必要であろう。アイデンティティ形成を核として人間の発達を探究するエリクソンの自我心理学は,発達心理学,性格心理学,臨床心理学,社会心理学など心理学諸領域において消化・吸収され,活かされている。さらには,あらゆる心理現象を自己に関連づけることで心理学諸領域の知見を有機的に結びつけ,自己の構造や機能を総合的に解明していこうという自己心理学の構想の中にも息づいている。自己に関する従来の心理学的研究は,自己を静止的に対象化することで推進されてきた。だが,藤永保(2008)が指摘するように,自己という存在を支える暗黙の背景であった意識という概念については,新たな科学的知見により重大な変化が生じつつあり,客体としての自己と主体としての研究者といった対峙を捨てた新たな研究方法を模索すべき時がきているとみなすべきであろう。 →精神分析 →文化的アイデンティティ
〔榎本 博明〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「自我心理学」の意味・わかりやすい解説

自我心理学
じがしんりがく
ego psychology

自我の適応機能を強調する精神分析の一学派。イギリスの対象関係論、フランスのラカン派と対照的な立場にたっている。フロイトの前期の心理学は無意識を問題にしていたので深層心理学とよばれるのに対して、後期に至って自我が問題にされるようになると、前期と区別して自我心理学とよばれる。しかし、一般にはフロイト正統派であることを主張するアメリカのハルトマンHeinz Hartmann(1894―1970)を中心とした精神分析の流れのことを自我心理学とよぶことが多い。自我心理学によれば、自我は不安や心理的葛藤(かっとう)に基づいて形成されるのでなく、むしろ生来的、自生的なものと考えられ、葛藤とは関係なく自我がつくりあげられ、自律的であるとされる。しかし社会的に隔離され、適切な刺激を欠き、親子関係が不適切であれば、自我は発達しなくなる。アメリカのマーラーMargaret S. Mahler(1897―1985)は、乳幼児が母親から分離―個体化する過程について観察し、自我の発達が母子間の適切な情緒的コミュニケーションによって規定されることを明らかにした。自我は知覚し、判断し、決定を下し、環境の変化に応じて適応していく機能を果たすものであると主張される。自我心理学は精神分析と一般心理学を結び付けた功績は大きいが、こうした自我の考え方がフロイトの正統であるか否かについては議論の分かれるところである。フランスの分析家ラカンは、自我心理学を、適応だけを顧慮する心理学として批判する。精神分析は生物学ではなく本来の意味で心理学にならなければならないというのである。こうした考え方のなかには、自我心理学が問題とする自我でなく、主体と自我の概念をそれぞれ明確にしようとする傾向が認められる。

[外林大作・川幡政道]

『ジャック・ラカン著、ジャック・アラン・ミレール編、小出浩之・鈴木國文・小川豊昭・南淳三訳『フロイト理論と精神分析技法における自我』上下(1998・岩波書店)』『マーガレット・マーラー他著、高橋雅士・織田正美・浜畑紀訳『乳幼児の心理的誕生――母子共生と個体化』(2001・黎明書房)』『小此木啓吾著『現代の精神分析――フロイトからフロイト以後へ』(講談社学術文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「自我心理学」の意味・わかりやすい解説

自我心理学
じがしんりがく
ego psychology

経験的な自我を中心に人間の行動を分析する心理学の一分野。精神分析学的な心理学で,S.フロイトのそれは深層心理学ともいわれる。フロイトによれば,自我はその発生する基盤となる無意識的な原我 (→イド ) と超自我および外界との三者の関係を調整する役割をになう,比較的消極的な意味をもつ場合が多いとされる。娘の A.フロイトはこれを発展させて,自我の防衛機制という,より積極的な機能を考えた。以後の精神分析では自我を重視する考え方が広まり,H.ハルトマンは自我の自律性を強調した。これらの考え方と対立するものに,C.ユングの分析心理学がある。

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世界大百科事典(旧版)内の自我心理学の言及

【精神分析】より


【フロイト以後の精神分析】
 フロイトは自我を,エスの欲動を制御し,超自我の圧力に対しながら外界との適応を図るものとしていわば受身的にとらえたが,自我機能そのものについての検討は徹底しないままに終わった。このフロイトの自我研究を継承発展させ自我の積極的機能を明らかにした代表者は,フロイトの娘であるA.フロイト,ならびにH.ハルトマンらであり,彼らにはじまる自我心理学ego psychologyは,以後アメリカにおける精神分析学の主流となった。この系譜に属するE.H.エリクソンの自我の心理的‐社会的発達理論,すなわちアイデンティティ形成理論は,臨床的にも社会学的にもきわめて有用な概念である。…

【ハルトマン】より

…精神分析的自我心理学を発展させたオーストリア出身の精神分析医。ウィーン生れ。…

※「自我心理学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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