糸原村(読み)いとばるむら

日本歴史地名大系 「糸原村」の解説

糸原村
いとばるむら

[現在地名]宮崎市糸原

大淀川とその支流本庄ほんじよう川との間にあり、村の東で両川が合流する。諸県もろかた郡に属し、東は本庄川を挟んで宮崎郡大瀬町おおせまち村、北は同郡金崎かねざき村、西は花見はなみ(現高岡町)、南は大淀川を挟み有田ありた村。鹿児島藩領倉岡くらおか郷に属し、倉岡村ともいわれる。「上井覚兼日記」天正一一年(一五八三)三月二四日条に糸原名とみえ、宮崎地頭上井覚兼は野尻地頭市来家守に対し、当初糸原名は野尻のじりに付けられていたが不便であったため倉岡へ付け、その替地として井蔵いくら八町名(現新富町)を野尻に付けたことを伝えている。翌四月一一日には倉岡地頭吉利久金は糸原名が倉岡に付けられたことの礼を覚兼に伝えている。同月二九日総昌そうしよう(現西都市)からの使僧が覚兼のもとを訪れ、糸原名にあった総昌院領が替地により倉岡医王いおう(郡山寺)領となったため掛合って取戻したが、再び医王院領となっていることについて覚兼に問合せている(同書)

天正年間に通用した日向国五郡分帳には宮崎郡内に倉岡八〇町とは別に糸原六町がみえる。慶長五年(一六〇〇)一〇月、宮崎城を攻め取った伊東勢は勢いに乗じて関ヶ原の戦から帰国途中の島津勢に合戦を挑み、同月五日には簗瀬やなせ・糸原などに火を放っている。

糸原村
いとはるむら

[現在地名]武蔵町糸原

武蔵川を挟んで古市ふるいち村の南に位置し、東は伊予灘に面する。南は下原しもばる(現安岐町)など。天文九年(一五四〇)一〇月二〇日の田原親資知行預ケ状(市丸文書)に「糸原」とみえる。慶長豊後国絵図に村名がみえ、高六千三九九石余。小倉藩元和人畜改帳では高七九〇石余、家数八六、うち百姓三〇・奈多社人四・奉公人三・山伏一、名子家・牛屋・にわや・隠居屋四八、人数二二二、うち百姓三〇・名子一六、馬一〇・牛四一。正保郷帳では武蔵郷に属し、田方四三四石余・畑方一八八石余、日損所で茅山・柴山・新田がある。天保郷帳では高一千六一石余。

糸原村
いとわらむら

[現在地名]大屋町糸原

大屋市場おおやいちば村の南、明延あけのべ川の流域に位置する。近世の領主の変遷は大屋市場村に同じ。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)では大屋庄高九八七石余のうちに含まれて高付されていたと思われる。出石封内明細帳では拝領高八二石余・改出高一二石余、これらの内訳は屋敷五石余・麻畑二石余・田方五七石余・畑方三〇石余、ほかに古新発高七石余・新発高六石余、小物成で目につくのは茶代米の二石九斗四升六合で、高当りで換算した養父郡出石藩領諸村平均の約七倍である。また刈畑役(大豆二斗一升・小豆四斗四升・粟一石六斗)も同じく諸村平均に比べて多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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