米泉村(読み)よねいずみむら

日本歴史地名大系 「米泉村」の解説

米泉村
よねいずみむら

[現在地名]金沢市米泉町一―一〇丁目

太郎田たろうだ村・保古ふご村の南東、伏見ふしみ川・高橋たかはし川の左岸に位置する。長享一揆の指導者洲崎慶覚や門徒組織米泉組(米富組)の中核で「天文日記」などに散見する洲崎兵庫、永禄―天正年間(一五五八―九二)の郡衆の一人洲崎景勝などが当地に住しており、石川郡における一向一揆下の活動拠点の一つであった。

冷泉為広の「越後下向日記」によれば、延徳三年(一四九一)三月一一日、為広一行は野市ののいち(現野々市町)を経て同日夜「ヨナミトノキヤウカク所」に一泊、翌一二日同所を発ち、増泉ますいずみ石坂いしさかを通り、犀川を渡った。この「キヤウカク」は当地に邸宅を構える洲崎慶覚のことと考えられる。文明七年(一四七五)富樫政親に敗れ、越中に退いた門徒衆の代表として、越前吉崎よしさき(現福井県金津町)蓮如に和与の仲介を求めてきた使の一人に「洲崎藤右衛門入道慶覚」がみえ(天正三年記)、早くから加賀の有力門徒であった。「蔭涼軒日録」文明一七年一〇月二四日条によれば北加賀の流通拠点の一つ宮腰みやのこし津に「強入部」するなど、慶覚は庄園侵略により勢力を拡大、長享二年(一四八八)六月、河合宣久らとともに一向一揆勢の大将として守護政親を高尾たこう城に包囲、自刃させている(官知論)。明応四年(一四九五)には河北かほく小坂おさか庄西方に同庄代官佐田某と結んだ「京覚」が乱入し、年貢を押領している(「大乗院寺社雑事記」同年二月一一日条)。同九年一二月の大野庄年貢算用状(天龍寺文書)に「石黒孫左衛門方親并洲崎十郎左衛門入道死去弔料分」として八石六斗四升(代銭三貫二〇〇文分)が計上されているが、この十郎左衛門入道は慶覚の親族であろう。

米泉村
こめいずみむら

[現在地名]宮崎町米泉

川左岸の現宮崎町東端にあり、東は羽場はば(現中新田町)、北は下多田川しもただがわ(現同上)、西はぬまふくろ村、南は高城たかき(現色麻町)に接する。中世には穀積こくづみ郷・米積こめづみ郷とよばれ、足利尊氏の祖父家時の領地であり、その家人倉持左衛門尉忠行が、文永三年(一二六六)地頭代として下向して支配し、以後倉持氏に伝領された(同年四月二四日「足利家時袖判下文」倉持文書)。正応五年(一二九二)穀積郷は「沼袋郷半分」「中新田郷内屋敷田畠」ほかの所領とともに左衛門入道浄円から子息倉持家行に譲られている(永仁四年三月一一日「足利貞氏袖判下文案」同文書)。正安二年(一三〇〇)四月五日の倉持家行譲状(同文書)によれば、米積郷は左衛門三郎師家(師忠)に譲られたが、その際五月一五日の「粟船武蔵前司入道」の仏事のための二〇貫文のうち一〇貫文を、米積郷から出すよう定められていた。徳治三年(一三〇八)五月二八日の足利貞氏袖判左衛門尉師行奉書(同文書)によると、穀積郷は去年一〇月分の「御料沙汰用途玖百文」を納入せず、「招其咎歟」と催促を受け、六月二五日までに納入するよう求められており、もしその費用が調達できない場合は、決算報告書を出せと地頭の強い態度を示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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