簗瀬(読み)やなせ

日本歴史地名大系 「簗瀬」の解説

簗瀬
やなせ

名張川が南から西・北をめぐるように流れ、簗瀬の南西部で宇陀うだ川を合せ、北の大屋戸おおやど村へ流れる。南西対岸黒田くろだ村。東の平尾ひらお山から延びる丘陵部と平地部よりなり、平地部には旧名張川あるいはその分流と思われる二条の河川跡が認められる。市街地はわずかな高低がある平坦部に立地する。名張川の鮎は有名で、延暦二三年(八〇四)注進の「皇太神宮儀式帳」に記す伊賀国造の祖が奉った「朝夕御饌供奉、年魚取淵、簗作瀬一処」は名張川辺りと思われ、供御くぎよ川という名張川の別名は、古代ここの鮎を伊勢神宮に供したことに由来する。この鮎をとるための「簗作瀬」が村名となったと考えられる。

天永元年(一一一〇)一二月一三日の伊賀国名張郡々司等勘注案(東大寺文書)所載の貞観六年(八六四)正月一九日の存疑藤原倫滋申文に倫滋私領のうち「伊賀国名張郡簗瀬」が載る。治暦三年(一〇六七)八月一一日の藤原信良去文案(内閣文庫蔵伊賀国古文書)に「簗瀬村」とあり、その四至を「東限高岡横尾、南限供御川、西限名張川、北限剥山」と記す。これはほぼ現在の名張市街地全体と蔵持くらもち町を含む地域と推測され、江戸時代の簗瀬郷と同地域である。

藤原実遠の所領となり、天喜四年(一〇五六)二月に実遠は養子信良に譲っている(同年二月二三日「散位藤原実遠所領譲状案」東南院文書)。治暦三年八月に信良は実遠が未進していた代償に簗瀬村の地を東大寺別当有慶に渡し(同年八月一一日「藤原信良去文案」)、東大寺は簗瀬村一七町余の田を名張郡司丈部為延に宛行い、田代荒野を開発させ、作手職を為延の子孫に相伝領掌させた(治暦二年三月一一日付「大僧都有慶房政所下文案」東大寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報