第十堰(読み)だいじゆうぜき

日本歴史地名大系 「第十堰」の解説

第十堰
だいじゆうぜき

宝暦二年(一七五二)徳島藩によって吉野川に築造された固定堰。かつての吉野川本流筋(現在の旧吉野川)およびその分流である今切いまぎれ川下流の村々への農業用水を確保するために設けられた。名西郡第十村地先に位置することから第十堰とよばれ、第拾堰・第十関ともみえる。近世中期、徳島藩は徳島城下への舟運の利便性を主目的として、第十村と名東みようどううばしま(現藍住町)との間に幅六間の新川掘抜工事を行ったが、これによって吉野川の河水が吉野川の分流で新川筋別宮べつく(現在の吉野川本流)に流れ込んでしまい、第十村付近から北東流していた吉野川本流筋(旧吉野川)への水量が減じた。この結果、吉野川本流筋および今切川筋の村々では灌漑用水に不足をきたすとともに、とくに最下流部の新田地帯では塩害が激しくなった。このため寛延三年(一七五〇)に吉野川筋の下板しもいた(旧板東郡)四四ヵ村が連判で徳島藩に吉野川本流と別宮川との分水地点である第十村での新川堰止めを嘆願した。宝暦元年徳島藩は調査を行い、翌二年春に工事に着手した。完成は同年中といわれるが、不詳。目路見奉行は猪子処左衛門・茂村五郎兵衛・日下伊平太・林太郎右衛門、関奉行は富永吉兵衛・板東清内であった。当初の堰は長さ二二〇間、幅七―一二間の和久堰、杭継留堰で、表枠際に砂石を入れ、竪蛇籠で堰止める構造であった。この工事に併行して本流筋の姥ヶ島村下流に長さ一八七間の川原堀、神宮入江じんぐういりえ川に幅一〇間・長さ一六〇間の水刎(水制)が築かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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