穴沢村(読み)あなざわむら

日本歴史地名大系 「穴沢村」の解説

穴沢村
あなざわむら

[現在地名]岩泉町穴沢

川の中流域にあり、袰綿ほろわた村の西に位置。小川が支流田山たやまヶ沢・みなみ沢を合せて北寄りを北西から南東に流れる。耕地の多くはこの流域に開かれる。小本おもと街道が通る。永正五年(一五〇八)の糠部郡九箇部他馬焼印図(古今要覧稿)にみえる「あなさは」は当地のことか。工藤光祐弟信祐の譜(参考諸家系図)には文禄年中(一五九二―九六)南部信直から当村に一二〇石を与えられて穴沢氏に改めたとある。正保国絵図では高五四石余。栄祐のときの宝永二年(一七〇五)には改高八〇石余を受けている(前掲系図)。元禄十郡郷帳による〆高は田方五石余・畑方一一〇石余。

穴沢村
あなざわむら

[現在地名]倉吉市穴沢

別所べつしよ村の東に位置し、由良ゆら川の支流円城寺えんじようじ川に沿う。東方の上神かずわ村の枝郷として発達した。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高四二七石余、免三ツ、竈数三〇余。大神宮(現灘手神社)を祀っていた。山崎氏・福田氏の給地があった(給人所付帳)。「藩史」では享和三年(一八〇三)新田村として届出されたとする。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四五七石余、竈数三八。

穴沢村
あなざわむら

[現在地名]入広瀬村穴沢

破間あぶるま川右岸にあり、西の対岸大栃山おおとちやま村、北の下流平野又ひらのまた新田、東に芋鞘いもざや新田。応永七年(一四〇〇)一〇月五日の某証状(穴沢文書)に「犬飼兵衛太郎入□申堺之事、にこり又きたの峯堺からすさわのきた峯堺、是者穴沢之内たるへく候」とみえる。正保国絵図では高二九石余、高田藩領。天和三年郷帳では高六〇石六斗余。ほかに同所新田高二二石八斗余がある。寛保三年(一七四三)に糸魚川藩領となる。年不詳の糸魚川領魚沼郡二十三ケ村御水帳写(石野武教氏蔵)では田三町七反余・畑二町二反余、ほかに漆木一本と青苧畑二反余。

穴沢村
あなざわむら

[現在地名]四賀村会田あいだ 穴沢

松本藩領会田組で、のち幕府領。会田川支流の穴沢川上流の山間に発達した小村で、取出とりいで村の東に位置する。

天正検地の村高は五一石一斗九升五合で、「信府統記」によると、享保九年(一七二四)当時の石高は一〇八石六斗六升二合、うち田七八石六升、畑二一石八斗八升二合となっており、慶安検地時は本百姓七軒、門百姓七軒であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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