穴太村(読み)あのうむら

日本歴史地名大系 「穴太村」の解説

穴太村
あのうむら

[現在地名]大津市穴太一―三丁目・唐崎からさき三丁目・弥生町やよいちよう下阪本しもさかもと二丁目・坂本本町さかもとほんまち

下坂本村の西、上坂本村の南に位置する東西に長い村域で、西は山城国。中世は延暦寺支配下の穴太散所などとしてみえ、石工集団の穴太衆が知られる(続正法論)。「平家物語」巻六(横田河原合戦)によると、養和二年(一一八二)平重衡は坂本日吉社参詣を終えた後白河法皇を穴太付近で出迎えた。応永元年(一三九四)八月今道いまみち越を経て同社に参詣した将軍足利義満もこの地を通っている(日吉社室町殿御社参記)。明応二年(一四九三)一一月滋賀郡で土一揆が蜂起、日吉社に籠って徳政令の発布を要求した時には穴太からもこれに参加する者があったようで、延暦寺衆徒によって日吉社やその近郷とともに当地も焼払われている(「親長卿記」同月一八日条など)

穴太村
あのうむら

[現在地名]八尾市みや町一―四丁目・ほん町六丁目・末広すえひろ町一―四丁目・山城やましろ町一―五丁目など

西郷さいごう村の北西に続く。産土神穴太神社のある土地が幾分周りより高くなっている。ここにかつて千眼せんげん寺という大寺があったと伝える。「河内鑑名所記」に「穴太村、大日山千眼寺旧跡、天照大神春日住吉社あり」とあり、「和漢三才図会」にも「大日山千眼寺、在穴太村、今唯無寺有礎耳」とある。昭和五六、七年(一九八一、二)千眼寺跡が発掘され、平安末から室町期にかけての瓦や礎石検出、寺跡が確認された。若江郡に属し、村高は正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳で三〇二石余。

穴太村
あのうむら

[現在地名]尼崎市東園田町ひがしそのだちよう二―五丁目・同九丁目

法界寺ほうかいじ村の北西に位置する。地元ではアノとも発音される。慶長国絵図にアヲウ村とみえ、高二二八石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳には西太村、正保郷帳に穴太村と記される。慶長六年(一六〇一)旗本柘植正俊領となり明治に至る(尼崎市史)。なお前掲摂津一国御改帳では建部政長領。元禄二年(一六八九)から始まる庄屋万覚帳(篠部家文書)によれば牛八(数値は史料どおり。一疋一人持ち二疋・二人持ち一疋・三人持ち一疋・四人三疋持ち三疋)、毛付高二二八石余、うち三三石余は畑方、一九五石余は田方。

穴太村
あなおむら

[現在地名]亀岡市曾我部そがべ町穴太

北西は佐伯さいき、北は穴川あながわ北東余部あまるべ、南は重利しげとし西条にしじようの村々。犬飼いぬかい川が村内の中心をほぼ北流する。

地名の起源は往古村内の神明しんめい社に大きな桑の木があり、その上部がうつぼになっていたが、そこに毎年稲が生じ穂を出していたことから、「穴穂」とよぶようになったといわれる(桑下漫録)

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高六三〇石、戸数一二、松田善右衛門知行地で、農作は五穀のほか綿・ほおずきなどを作った。

小幡おばた神社の裏、犬飼川に沿った丘陵地に後期の古墳が一六基確認されているが、このなかの堺塚さかいづか古墳は竪穴式石室をもった径約一五メートル、高さ約二メートルの円墳で、石室は長さ三・三メートル、幅約〇・九メートル、高さ〇・六メートル、周壁は径二〇―二五センチの栗石を積み、天井部は厚さ一五センチ内外の平石六個で覆い、そのうちの二個が残り、底部に厚さ約一〇センチの礫石層が認められる。

穴太村
あのうむら

[現在地名]東員町穴太

筑紫つくし村の西にあり、集落は員弁川の支流ふじ川の北に位置する。「神鳳鈔」に「二宮穴大御厨各三石、本田六丁」とみえ、「外宮神領目録」「外宮神領給人引付」にも同じく穴太御厨がみえて、中世この地に伊勢神宮領の存在したことを物語る。江戸時代は桑名藩成立以来、同藩領。「五鈴遺響」には「穴田」と記され、「あなだ」ともよまれていたようである。ただし、その他の史料にはいずれも「穴太」と記し、元禄郷帳は「アナフ」の読みを付す。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳によれば、家数七九、人数三七九、牛二四、馬一、寺社に源光げんこう寺・浄泉じようせん寺、鎮守・春日・八幡宮牛頭ごず天王・山ノ神などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報