稲村城跡(読み)いなむらじようあと

日本歴史地名大系 「稲村城跡」の解説

稲村城跡
いなむらじようあと

[現在地名]館山市稲

いな北部の小丘上にあり、一五世紀末から一六世紀半ば頃まで安房里見氏の拠点となった城。文明一八年(一四八六)里見氏初代義実が築城を始め、二代成義の代の延徳三年(一四九一)に完成、以後義通・実尭・義豊が居城したとされる(「里見代々記」など)。しかし一説では義実・成義はともに白浜しらはま(現白浜町)を居城とし、里見氏の当地在城は五代義豊からともいわれており(「延命寺本里見系図」延命寺蔵)、詳細は不明。なお義通は永正五年(一五〇八)鶴谷つるがや八幡宮造営大檀那としてかかわり(九月二五日「棟札」鶴谷八幡宮蔵)、同一一年には那古なご寺の梵鐘を再鋳させており(弘治三年「那古寺梵鐘銘」)、一五世紀の初め里見氏はすでに安房国内で守護に代り得る実権を掌握していたとも考えられている。

稲村城跡
いなむらじようあと

[現在地名]市町稲村

上市川の東岸にそびえるじよう(三四六・六メートル)の山上にある。比高は西側の釈泉寺しやくせんじで二二五メートル、東側の稲村で一〇六メートル。城山北西眼目さつか極楽寺ごくらくじ方面から望むと山間円錐形で険しい独特の山容を呈し、遠くからでもすぐそれとわかる。周囲は険しい急斜面で、東方以外は上市川や谷川に囲まれた要害である。東麓には稲村の集落があり、ここからは比高が小さいため多少登りやすい。山上からは北西に現上市町の中心部、また南西には稲村の奥の詰城にあたる千石山せんごくやま城方面を望める。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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