稲川村(読み)いながわむら

日本歴史地名大系 「稲川村」の解説

稲川村
いながわむら

[現在地名]静岡市稲川一―三丁目・中田なかだ一丁目

馬淵まぶち村の東に位置する。中世は稲河郷と称された。建武四年(一三三七)正月六日の石川実正譲状(北山本門寺文書)によると、実正は「稲河郷」惣領職を孫三郎に、地頭分・郷司分田を子息二人と後家に、娘四人に「いなかハせんたい」三反ずつを与えた。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)および永禄元年(一五五八)八月一三日の今川氏真朱印状(静岡浅間神社文書)に、当郷は青山あおやま八幡宮(現藤枝市)の放生会流鏑馬郷役一貫二〇〇文を負担するとある。江戸期は当地を名字の地とする駿府浅間社(静岡浅間神社)奉幣使稲川氏の所領とされ(「修訂駿河国新風土記」など)、慶長一四年(一六〇九)一二月の彦坂光正駿府浅間社領所付写(旧新宮神主文書)に「稲川村」は高一七九石余とみえる。

稲川村
いながわむら

[現在地名]出雲崎町稲川

船橋ふなばし村から北西方向に西山丘陵の谷を通って達する、丘陵内の小盆地に発達した集落正保国絵図に高三九〇石余で幕府領。元禄一四年(一七〇一)に一部が高田たかだ(現上越市)城主稲葉氏領となり、この分は稲川村新料いながわむらしんりよう(または北方)と称した。幕府領稲川村は稲川村古料(または南方あるいは単に稲川村)と称した。新料は天明五年(一七八五)再び幕府領となるが、明治に至るまで各々一村扱いであった。

稲川村
いながわむら

[現在地名]藤枝市稲川・稲川一丁目・藤枝一丁目

益津ましづ村の南に位置し、瀬戸せと川の北側に本村があり、一部が同川の南側に位置している。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に村名がみえ、高四〇九石余、以後幕末まで田中藩領。同郷村高帳では益津郡所属となっているが、寛文四年(一六六四)の西尾忠成領知目録(寛文朱印留)では志太しだ郡に属し、以後同郡に属した。元禄郷帳では高四一四石余。旧高旧領取調帳では高五〇九石余、うち川関社除地一石・曹洞宗満蔵(万蔵)(現廃寺)除地一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報