稲子沢村(読み)いなこざわむら

日本歴史地名大系 「稲子沢村」の解説

稲子沢村
いなこざわむら

[現在地名]峰浜村石川いしかわ字稲子沢・能代道下のしろみちした

石川村の南に接し、西に内荒巻うちあらまき村、南に朴瀬ほのきせ(現能代市)がある。

慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「百三石六斗七升六合 いなこ村」とあるが、黒印高帳(秋田県庁蔵)には同八年に三四石余、宝永二年(一七〇五)に七五石余とある。「秋田風土記」には「石川村扱村也、先年亡所して石川より人移りて四戸家居をなす、むかしは十四戸あり」とある。

文化一四年(一八一七)の山本郡稲子沢村打直御検地野帳(適産調)に、田畑屋敷を合わせて七町八段余、分米五四石余が記され、字名に、石坂いしざか嘉之助沢かのすけざわ伊勢堂下いせどうした大野竹原おおのたけはら・能代道下・喜右衛門堤きえもんづつみさくだて伊豆ヶ沢いずがさわかこいさわ孫ヶ沢まごがさわがある。

稲子沢村
いなござわむら

[現在地名]富津市志駒しこま

志駒村の北、みなと川支流志駒川中流域にある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に稲子村とあり、高五二石。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に記載があり、佐貫藩領。元禄郷帳では高五四石余で、幕末も同様。宝永七年(一七一〇)から再び佐貫藩領。寛政五年(一七九三)の村明細帳(椙山家文書)では反別六町四反余、年貢は米三七俵余・永三貫一一三文余を上納、家数一一・人数五二、農間には男女とも山稼をした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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