稲元村(読み)いなもとむら

日本歴史地名大系 「稲元村」の解説

稲元村
いなもとむら

[現在地名]宗像市稲元・城西じようせいおか一―六丁目

つり川・山田やまだ川の中流域に位置し、西は河東かとう村。稲本とも記した。仁平四年(一一五四)九月二三日の日付をもつ稲元区蔵滑石製経筒銘に「筑前之国宗像宮内稲本村居住綾清宗并紀氏」とある。建長元年(一二四九)九月一七日、領家の西園寺実氏は藤原(武藤)為頼を土穴つちあな・稲本・須恵すえ三ヵ村名主職に補任している(「西園寺実氏政所下文」宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一〇)。下文は宗像庄官等宛で、三ヵ村は宗像庄に含まれていた。為頼は武藤資頼の子。宗像氏忠の妻張氏の養子となり、承久二年(一二二〇)に三ヵ村名主職を譲られているが、張氏の子息宗像氏重、氏重の後家尼らはこれに異論を唱えている。為頼は入道して覚然と号している(文永六年二月日「預所橘知嗣袖判下文」同文書/鎌倉遺文一四、「須恵村相伝系図」)。文永五年(一二六八)七月三日の沙弥浄恵請文(宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文一三)によれば、土穴村・須恵村とともに宗像氏高・氏房が宗像社に寄進した「根本之神領」であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報