秋元志朝(読み)あきもと ゆきとも

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「秋元志朝」の解説

秋元志朝 あきもと-ゆきとも

1820-1876 江戸時代後期の大名
文政3年3月8日生まれ。周防(すおう)(山口県)徳山藩主毛利広鎮(もうり-ひろしげ)の8男。秋元久朝養子となり,天保(てんぽう)10年出羽(でわ)山形藩主秋元家4代。弘化(こうか)2年上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)に転封(てんぽう),館林藩主秋元家初代となる。公武間の斡旋(あっせん)につとめたが,幕府から嫌疑をうけ蟄居(ちっきょ)を命じられた。維新後は山陵副管をつとめた。明治9年7月26日死去。57歳。

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367日誕生日大事典 「秋元志朝」の解説

秋元志朝 (あきもとゆきとも)

生年月日:1820年3月8日
江戸時代末期;明治時代の大名
1876年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の秋元志朝の言及

【館林藩】より

…代わって松平武元が再入封し,武元は将軍家宣,家治2代にわたり老中として重きをなし,6万1000石に加封されたが,このあと2代を経て1836年(天保7)石見浜田に移り,奥州棚倉の井上正春が代わった。しかしこれも45年(弘化2)浜松に転じ,出羽山形から秋元志朝(ゆきとも)が6万石で入封した。秋元氏は上野総社城主長朝の後裔で,志朝は長州藩の縁戚である。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」