福江城跡(読み)ふくえじようあと

日本歴史地名大系 「福江城跡」の解説

福江城跡
ふくえじようあと

[現在地名]福江市福江町

福江藩主五島氏の政庁となった城跡。石田いしだ城とも称し、県指定史跡。天正一五年(一五八七)宇久純玄豊臣秀吉から旧来の地を安堵され、文禄元年(一五九二)五島氏を称する。便宜上、純玄をもって福江藩初代とする。五島氏の所領が五島内にあり、そのため五島藩ともいう。ただし同氏は中世以来の江川えがわ城を本拠としており、慶長一九年(一六一四)同城が全焼したにもかかわらず築城を許されなかったため、寛永一五年(一六三八、寛永一四年とも、元和三年ともいう)福江の石田浜に陣屋を建設、この陣屋(通称福江城)を藩政庁とした。嘉永二年(一八四九)築城が許され、石田城が完成したのは文久三年(一八六三)のことであった。五島氏は外様大名で、柳間詰。

〔江川城時代〕

戦国期に宇久うく(現宇久町)から五島の中通なかどおり島・久賀ひさか島・福江島などへその勢力を広げていった宇久氏も、豊臣秀吉による九州仕置により近世大名として出発する。これより先、天正一四年一二月に秀吉の豊臣姓祝儀のために派遣されていた大浜孫右衛門(玄雅)小西隆佐から島津氏攻略の案内役を依頼されたという(「五島系図」泊家文書)。同一五年七月純玄は本領を安堵されるが、その宛行高は五五ヵ村・一万五千石余とも(五島系図・公譜別録)、一万六千石とも(「慶長三年大名帳」に五島孫左衛門と記される)、また一万五千五三〇石ともいわれる(明治元年「届書」公譜別録)。これらはすべて五島のうちであるが、五島すべてを所領にしていたわけではなく、一四世紀以来の所領および漁場相論があった中通島の南部では平戸松浦氏と二分、または平戸松浦氏・志佐松浦氏と三分する相給地があり、二方領・三方領と称されていた。

文禄元年の豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵では宇久純玄は第一軍の小西行長に属して参加、騎馬として侍大将・軍奉行・旗奉行など二七騎をはじめ、徒武者四〇・足軽一二〇・小人三八・下夫二〇八・船頭水夫二〇〇などを含む総勢七〇〇余人が軍船一七艘・属船八艘に分れて深江ふかえ(福江)島の石田浜から出航しており(「朝鮮江人数差越候事」五島家系図記録、「五島編年史」)、水軍としての性格がうかがえる。純玄はまた五ヵ条の掟書(五島編年史)を出して家臣団の結束などを求めている。同三年七月陣中で疱瘡により病没。後継者がなく、意見の統一のないまま小西行長の主導により、一門で惣役の宇久盛長の子(当時二歳、のちの盛利)を大浜玄雅の養子とし、玄雅を後継に指名した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android