福住村(読み)ふくすみむら

日本歴史地名大系 「福住村」の解説

福住村
ふくすみむら

[現在地名]天理市福住町

丹波市たんばいち村東方、都介野つげの高原に至る山中に所在。奈良から鉢伏はちぶせ峠を越え、伊勢・宇陀・長谷方面に通ずる古代交通の要所。「春日社記録」中臣祐定記の嘉禎二年(一二三六)一〇月九日条に「注進 御供用途可令運上路々事 東路(中略)福住路」とみえている。中世には福住城があった。

慶長郷帳の村高一千八九〇石。初め旗本筒井順斎(郡山城番)領。大坂夏の陣で順斎が郡山こおりやま(現大和郡山市)を放棄、自殺したので幕府領(代官間宮三郎右衛門)編入、元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領。この福住村は元禄一五年(一七〇二)までに高分して福住村・上入田かみにゆうだ村・下入田村・南田みのだ村・小野味おのみ村・浄土じようど村・別所べつしよ村・いち村の八村となったが、「大和志料」所収の元禄郷帳では福住村に「一本福住郷中定村ニ作ル」、ほか七村に「福住ノ支郷」と注記しているので、中心村落の福住村は中定なかさだ村ともいわれていた。

福住村
ふくすみむら

[現在地名]篠山市福住

安田やすだ村の南東に位置し、籾井もみい川に水無みずなし川が合流する。籾井氏の用いた籾井城の跡がある。古くは福泉とも記し、かつら村とも称された。江戸時代は宿場で、本陣・脇本陣が置かれた。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「福住村」とみえ、高四四八石。正保郷帳では田高三九三石余・畠高五四石余。元禄郷帳では高四五五石余。

福住村
ふくずみむら

[現在地名]西区押部谷町福住おしべだにちようふくずみ美穂みほおか一―五丁目・つきおか五丁目・富士見ふじみおか一丁目・同四―五丁目

明石川上流の右岸に位置し、西は西にし村。古くは東村とよばれた(元禄郷帳)。天正一二年(一五八四)七月一四日、押部谷のうち東村高一七二石余などが淡路の知行地の替地として船越景直に与えられた(「羽柴秀吉判物」記録御用所本古文書)。慶長国絵図・正保郷帳にも東村とあり、同帳によると田方二六五石余・畑方六六石余、「はへ山」あり、旱損所。

福住村
ふくすみむら

[現在地名]阿久比町福住

板山いたやま村の西にあり、北は緒川おがわ(現東浦町)と山続きである。「寛文覚書」によれば、概高四六二石余、田地二二町二反九畝余、畑地三町七畝余、戸数三九、人口二三二。将軍上洛・朝鮮使節通行の時東海道鳴海なるみ宿などへ人馬を出すとある。「徇行記」によれば、集落は東から流れる福住川(現福山川)により南北に分れ、北と東は丘陵で山麓および川沿いに民家が建並び、南は平坦で水田が開け、卯之山うのやまに続く。多くは「小百姓ハカリ」で農業を主とし、小商人や木綿仲買もある。

福住村
ふくずみむら

[現在地名]小矢部市福上ふくがみ

上次郎島かみじろじま村の南、次郎島新村の東、小矢部川右岸に位置。正保郷帳に村名がみえ、高二一五石余、田方一四町一反余・畑方二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二二四石・免四ツ三歩(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では、安永八年(一七七九)から天保九年までの手上高五一石余があり、高二七五石余・免四ツ四歩。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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