神前村(読み)かんざきむら

日本歴史地名大系 「神前村」の解説

神前村
かんざきむら

[現在地名]寒川町神前

寒川郡中央部北寄りに位置し、東は雨滝あめたき山頂近くで津田つだ(現津田町)富田西とみだにし(現大川町)、西北は熊高くまたか(一四六・二メートル)志度しど(現志度町)と接する。二つの丘陵に挟まれた小盆地に鴨部かべ川と津田川が貫流し、肥沃な農業地域を形成。雨滝山西麓に雨滝山古墳群があり、古くから石井いしい峠を越えて瀬戸内海航路の要所である津田湾に出る道が開け、畿内とのかかわりが深かったことが出土遺物から推測される。白鳳期の寺院跡である石井廃寺があり、式内社神前こうざき神社が鎮座する。「和名抄」寒川郡かんざき郷の地で、中世には九条家を本所、奈良興福寺を領家とする神崎かんざき庄が成立、戦国時代には寒川常隣により常隣じようりん城が築かれた。

慶長八年(一六〇三)三月から一〇月まで、寒川郡神崎一〇〇石が安西与八郎の知行地とされた(「生駒一正宛行状」安西文書)

神前村
こうざきむら

[現在地名]貝塚市神前・加神かしん二丁目・畠中はたけなか二丁目・脇浜わきはま一―二丁目・同四丁目・しん町など

脇浜わきのはま村の東、近木こぎ川右岸にある海岸に近い村で、日根郡に属する。紀州街道から分岐した紀州粉河こかわ方面への道が集落内を通り、南東行して熊野街道に出る。当村は天平一三年(七四一)行基が設営した停泊所二所のうち「神前船息」にあたるといわれ、「行基年譜」に「神前船息、在和泉国日根郡日根里近木郷内」とみえる。畠中村とともに中世近木庄の中心地で、村名を負った土豪神前氏の存在がしられる(→畠中村。正応五年(一二九二)近木庄で大検注が行われたが、その結果を注進した永仁二年(一二九四)八月一三日の近木庄領家方正検田目録案(高野山文書)に「神前番刀禰」が押判している。

神前村
こうざきむら

[現在地名]亀岡市宮前みやざき町神前

本梅ほんめ宮川みやがわ村の北東にあり、南北は山がせまり東西に細長く続く平地に位置する。宮川村から亀岡盆地北庄きたのしよう村への通路にあたり、一説に現千代川ちよかわ町に推定される丹波国府から、山陰へ通じる古い道筋にあたるともいわれる。道筋の集落は西神前といい、そこから東南の山間にある神前新田字黒田くろだを東神前とよぶ。

村落北の山頂は船井郡八木やぎ(現八木町)と境し、ここに神前北山きたやま城跡があり、内藤氏八木城の支城とされる。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば、西神前は高四二七石余、戸数六〇、亀山藩領。

神前村
こうざきむら

[現在地名]和歌山市神前

名草なくさ郡に属し、福飯ふくいいヶ峯の西麓にある。南は和田わだ川を挟んで和田村、北は津秦つわだ村。村内はきたみなみ新田しんでんに分れる(続風土記)。中世は日前宮領神前郷の地で、永仁三年(一二九五)の諸郷奉分田所当注文写(国立史料館蔵)によると同郷に百姓名八名・出作・預所名・刀禰名・刀禰公事料があった。除米には本荷前・新荷前・弥荷前・当郷中言社二季御供料・気鎮饗料などがあった。

神前村
かみのまえむら

[現在地名]蘇陽町かみまえ

大矢おおや川支流の上流にあり、東は日向国臼杵うすき郡、北は大野おおの村、西は市野原いちのはる(現上益城郡清和村)に接する。近世は菅尾手永に属し、阿蘇郡南郷之図(「国誌」所収)に「日州延岡領クラ岡山」の麓に神前がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報