石田女王(読み)いわたのじょおう

朝日日本歴史人物事典 「石田女王」の解説

石田女王

生年生没年不詳
8世紀の貴族の女性。磐田女王とも。女王家が神護景雲1(767)年には越中国礪波郡井山村(富山県庄川町)に治田を持っていたことがわかっている。同3年,県犬養宿禰姉女,不破内親王と共に内親王の子氷上志計志麻呂天皇にするため厭魅を行ったかどで流罪となった。しかし誣告とわかり,天応1(781)年2月従五位下に叙され,その後従五位上になっている。延暦17(798)年8月26日,近親者と思われる文室真人長谷とその子らが仏像,一切経,水田60町を石田女王のために東大寺に施入している。この日は阿弥陀院が建立された日である。

(児島恭子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石田女王」の解説

石田女王 いわたのじょおう

?-? 奈良時代の女王。
神護景雲(じんごけいうん)3年(769)塩焼王と不破内親王の子である氷上志計志麻呂(ひかみの-しけしまろ)を即位させるため,県犬養姉女(あがたのいぬかいの-あねめ)らとともに称徳天皇呪詛(じゅそ)し流罪(るざい)となったが,天応元年ゆるされた。越中(富山県)礪波(となみ)郡に治田(ちでん)をもっていた。延暦(えんりゃく)17年以前に死去。磐田女王ともかく。

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