知覧院(読み)ちらんいん

日本歴史地名大系 「知覧院」の解説

知覧院
ちらんいん

鎌倉時代から室町時代にみえる院名。現在の知覧町に比定される。智覧院・智覧見院とも記され、元亨五年(正中二年、一三二五)閏正月二二日の島津貞久国廻狩供人注文(山田文書)に「ちらミのゐん」とみえる。喜入肝付家本薩摩国建久図田帳によると、「知覧院四十丁」は府領社九町七段と公領三〇町三段(島津庄寄郡)からなり、府領社下司と公領院司(郡司)は次郎忠益、地頭は右衛門兵衛尉(島津忠久)。元亨四年三月八日の平忠世和与状(旧記雑録)には、「知覧院鎮守開聞中宮大明神」の神領について嘉祥(八四八―八五一)・天仁(一一〇八―一〇)以下の宮証文があったと記され、すでに平安時代に開聞宮(枚聞神社)の分霊が開聞中宮大明神として勧請されていた。これが現在の知覧町こおりに鎮座する豊玉姫とよたまひめ神社の前身である。前掲図田帳によると、当時その社領九町七段は頴娃えい揖宿いぶすき二郡の開聞宮領とともに大宰府領となっていたが、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)がその領有権を主張して係争中であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報