相馬事件(読み)そうまじけん

改訂新版 世界大百科事典 「相馬事件」の意味・わかりやすい解説

相馬事件 (そうまじけん)

奥州の旧相馬藩主相馬誠胤(ともたね)(1852-92・嘉永5-明治25)をめぐって1883年から10年以上も世間をさわがせた事件で,これが契機となり,精神衛生法の前身にあたる精神病者監護法(1900)が制定された。誠胤は14歳で家督を相続したが,24歳のころから精神変調の兆候を示し,居室に監禁される。これを家令志賀直道(作家志賀直哉の祖父)らの主家のっとりの陰謀と考えた〈忠臣錦織剛清(にしごりたけきよ)が83年に志賀らを私擅監禁の罪で告発,これをきっかけにお家騒動が始まった。誠胤は時の東京帝大教授三宅秀らの鑑定により精神病と断定され,東京府癲狂院(松沢病院の前身)に収容されるが,これを不満とする錦織と相馬家のあいだではその後も訴訟の応酬がつづき,誠胤が糖尿病で死亡してからも,毒殺の疑いのため遺体の発掘調査が行われたりした。94年,錦織は重禁錮4年,罰金40円の判決をうけて,事件はついに落着したが,錦織側を支援したと思われる後藤新平(当時,内務省衛生局技師)は証拠不十分で無罪だった。なお,こんにちの精神医学の知識では誠胤は統合失調症と推定される。
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