相野谷村(読み)あいのやむら

日本歴史地名大系 「相野谷村」の解説

相野谷村
あいのやむら

[現在地名]河北町相野谷

追波おつぱ川の北岸、一関いちのせき街道が西側を通る。東は中島なかじま村、西は成田なりた村。追波川の沿岸に宿駅飯野川いいのがわがあった。ほかに日向ひなた日影ひかげ五味ごみ山崎やまざきなどの集落がある。寛永一八年(一六四一)検地帳(葛西雅家文書)では高六六貫九一二文、うち田五六貫八八〇文・畑六貫七二六文・茶畑三貫一一三文・屋敷代一九三文、名請人三二で、ほか光明こうみよう院と中野なかの村の梅林ばいりん寺が記される。成田字さかいにある元和四年(一六一八)の野谷地開墾記念碑に「慶長十八年ニナリタやイイノやアイノやノやチ」とある。

相野谷村
あいのやつむら

[現在地名]富津市相野谷

一色いつしき村に隣接する。六反目ろくたんめ八反目はつたんめ郡前こおりまえ政所まんどころやつ屋敷谷やしきやつ惣作そうさくなどの地名がある。文禄三年(一五九四)九月二五日の天羽郡愛野郷検地帳(熊沢家文書)断簡であるが、一筆の記載形式は耕地縦横間数・地名・品等・反別・作人で、作人二九名のうちに図書・兵庫・能満のうまん寺・円明えんみよう院・光就こうじゆ院などがみえる。同月二六日の検地帳(同文書)天羽あまは郡鮎谷郷となっている。

相野谷村
あいのやむら

[現在地名]水海道市相野谷町

八間堀はちけんぼり川西岸の沖積低地に所在。北は中山なかやま村。「水海道郷土史談」によれば当村は水海道村の新田であったが、万治二年(一六五九)に分村し、秋場九蔵が本村から移住した。「寛文朱印留」には古河藩主の叔父土井利房の領地として村名がみえる。文政一二年(一八二九)に旗本鷲巣氏知行地天領の相給となり(市村家文書)、「各村旧高簿」によれば幕末には旗本竹本氏・鷲巣氏の知行地。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報