百済郡(読み)くだらぐん

日本歴史地名大系 「百済郡」の解説

百済郡
くだらぐん

和名抄」東急本国郡部に「久太良」の訓がある。摂津国一三郡のうち、この郡だけが独自の郡単位の条里制の呼称をもたずに東生ひがしなり郡・住吉郡の条里に含まれ、室町以降はかけ郡に含まれ、近世にはまったく消滅してしまうために、従来から各種の説もあるが、郡域は確定しがたい。「和名抄」には東部とうぶ南部なんぶ西部せいぶ三郷からなると記されており、式内社は存在しない。「四天王寺御手印縁起」に敬田きようでん(現四天王寺)の東側が百済郡であると記すから、四天王寺(現天王寺区)の東側の寺域に接して郡界があったことが知られ、現在は消滅したが「東部」の地名が「東成郡誌」にあげられているので、当郡の所在地域を、現大阪市生野いくの区・天王寺区・東住吉区・阿倍野区のそれぞれにわたる地域にあったと推定しておく。律令体制下に朝鮮三国の国名を称する郡があるが、武蔵国におかれた高麗こま郡と新羅しらぎ郡については、それぞれ「続日本紀」霊亀二年(七一六)五月一六日条・天平宝字二年(七五八)八月二四日条に、両国から渡来した人々を集めて建郡したことを明記し、両郡ともその後も存続するが、摂津国の百済郡のみは建郡時期が明らかでなく、その後も消滅するという特殊な歴史をもつ。

現存する古代史料によると、当郡内に本貫をもつ氏族としては百済王・竹志・広井造・一難・調らを復原しうるが、いずれも百済からの渡来氏族であり、高麗郡や新羅郡と同様に百済からの渡来者を集めて建郡したことは間違いない。この地に百済人の集住をもたらしたのは、百済の王族の定住による。すなわち百済の義慈王の子の善光王(禅広)らが本国の滅亡後の天智天皇三年(六六四)三月に難波に居住せしめられる(日本書紀)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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