白幡村(読み)しらはたむら

日本歴史地名大系 「白幡村」の解説

白幡村
しらはたむら

[現在地名]浦和市白幡一―六丁目・神明しんめい一―二丁目・根岸ねぎし五丁目・岸町きしちよう一―二丁目・同五丁目・別所べつしよ一丁目

つじ村の北に位置し、大宮台地浦和支台の南縁をつくる洪積台地上とそれを取囲む沖積低地に立地する。村内を中山道が通り、浦和町と与野町の間には砂原すなはら新田と称する持添新田がある。村名は「風土記稿」によると、天慶年中(九三八―九四七)平将門征伐のため藤原秀郷が当地にしばしば陣を張っており、八幡を勧請し、白旗を立て軍の勝利を祈ったことに由来するという。

白幡村
しらはたむら

[現在地名]成東町白幡

本須賀もとすか村の北西方に位置する。山辺やまべ郡に属する。田間たま(現東金市)より小松こまつ村まで東西に東金とうがね道が走り、当村を通る。作田さくだ川には当村が負担して仮橋を架けたという。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一一〇石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では富口組に属し、高四二二石余、旗本戸塚・榊原・堀野領と幕府領。元禄郷帳では白幡村(高三六九石余)のほか北白幡村(高五四石余)・南白幡村(高二五石余)が記されている。天保郷帳・旧高旧領取調帳でも三ヵ村に書分ける。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では白幡村一村で高五五〇石、幕府領と旗本榊原領・松下領・組与力給知、家数八一。

白幡村
しらはたむら

[現在地名]印西市白幡

浦辺うらべ村の南に位置。「寛文朱印留」に白畑村とみえ、佐倉藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高六七石余、旗本松平・勝部・山角(二氏)四氏の相給。印西牧の牧付村で、享保一五年(一七三〇)野馬入場新田の開発が行われ、高西こうさい新田白幡村持添として幕府領三〇町二反余・高七〇石余があった(印旛郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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