由比ガ浜(読み)ゆいがはま

日本歴史地名大系 「由比ガ浜」の解説

由比ガ浜
ゆいがはま

古くは由井・湯井などの字も充てられ、「吾妻鏡」には前浜まえはまともある。稲村いなむらヶ崎から材木座ざいもくざ飯島いいじま崎までの海岸の総称で、磯の全長は約三・二キロ。稲瀬いなせ川付近から西方さかした海岸、なめり川から西の中央部を由比ガ浜、東を材木座海岸と称している。名の由来は、往古に由比郷内に属していたからとか(風土記稿)、相互に助け合う結にちなむともいう。現在は湘南地方有数の海水浴場として名高いが、鎌倉時代は小笠懸流鏑馬などを催す武技の調練場であり、舟遊びの催し、風伯祭など陰陽道的な諸種の祭事、将軍の潮浴なども行われた。合戦のさいには戦場とも化し、ときにはこの浜で処刑される者もいた。

「吾妻鏡」には、治承四年(一一八〇)八月二四日・二六日条に畠山重忠の軍兵と三浦勢が「由井浦」の稲瀬川付近から小坪こつぼ(現逗子市)にかけて合戦したのをはじめ、養和元年(一一八一)六月二七日条には鶴岡八幡宮若宮造営用の材木が当浦に着岸したこと、寿永元年(一一八二)三月一五日条には鶴岡社頭より当浦に至る道の曲りを直し修造されたこと、元暦元年(一一八四)五月一九日条では源頼朝が平頼盛・一条能保らと海浜遊覧のため同浦より乗船、文治二年(一一八六)閏七月二九日条には義経の妾静が産んだ男児海中に捨てられて殺され、元久二年(一二〇五)六月二二日条には北条時政と畠山重忠の確執で多数の軍兵が「由比浜辺」を競い走っていること、同年八月一五日条には将軍頼家が六、七人の伶人を召し管絃妙曲を当浦で尽し、建保元年(一二一三)五月三日の和田合戦では和田義盛以下一族が滅び、浜の汀には仮屋が構えられて首実検が行われたことなどが記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報