田辺湊(読み)たなべみなと

日本歴史地名大系 「田辺湊」の解説

田辺湊
たなべみなと

現在、田辺湾の北側中央、田辺市街地南方の海辺を広く田辺港といい、古代以来の港津の所在地とされる。古代には、「日本書紀」斉明天皇四年一一月一一日条に「有間皇子曰はく、先づ宮室を燔きて、五百人を以て、一日両夜、牟婁津むろのつを邀へて、疾く船師を以て、淡路国を断らむ」とみえる牟婁津、「万葉集」巻一三の長歌に「紀の国のむろの江の辺に(下略)」と詠まれる「室の江」がある。もとより所在地を限定できないが、田辺湾にあった港津とみられる。平安中期の「いほぬし」には「むろのみなと」がみえ、著者の増基が熊野参詣の途次宿泊しているが、南部みなべの浜(現日高郡南部町)を過ぎて中辺路の通る牟婁湊といえば、ほぼ現在の田辺港辺りとみて大過ないだろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報