田烏浦(読み)たがらすうら

日本歴史地名大系 「田烏浦」の解説

田烏浦
たがらすうら

[現在地名]小浜市田烏

内外海うちとみ地域の東端に位置し、東は山を境にして食見しきみ河内こうち(現三方郡三方町)と接し、東南は山越をして海士坂あまさか(現遠敷郡上中町)に至る。西は海岸沿いに矢代やしろ浦へ通じ、北西若狭湾の入込んだ田烏湾に面する漁村中世までは多烏と記されることが多く、田烏に定着するのは近世初頭である。中世は神護じんご寺領西津にしづ庄に属し、西津本庄に対して多烏片庄とよばれていた。田烏・釣姫つるべ谷及たんぎようらの四集落からなり、近世では田烏集落のほぼ中心を流れる田烏川を境として北田烏(田烏北・釣姫・谷及)と南田烏(田烏南・須ノ浦)に分けられている。

建暦三年(一二一三)一〇月二九日付多烏浦源録職補任状(秦文書)に、

<資料は省略されています>

とある。当浦は平安末期に日向ひるが(現三方郡美浜町)より移り住んだ秦氏が開発し、文永八年(一二七一)一二月二九日付多烏浦立始次第注進状(同文書)に、

<資料は省略されています>

と記される。中世には各集落がそれぞれ独立性をもっていたが、田烏・汲部つるべ(釣姫)の両浦は西津庄内「汲部・多烏」と一括して取扱われており、雑公事は三分の二を汲部、三分の一は多烏が負担していた(文永九年七月二六日付「某下知状写」同文書)。しかし相論もたえず行われ、永仁四年(一二九六)三月には、

<資料は省略されています>

の和与がなされ、同年三月二六日に関東代官工藤果禅(右衛門入道)が証判している(「汲部・多烏両浦刀禰・百姓和与状写」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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