田尻庄(読み)たじりのしよう

日本歴史地名大系 「田尻庄」の解説

田尻庄
たじりのしよう

上田尻かみたじり・下田尻付近にあった庄園。保延六年(一一四〇)の今富名坪付案(壬生家文書)の「今富名相論坪」の個所に「已上二丁小田尻庄論近元名立寄人久成名」と所見。下って承久二年(一二二〇)五月一一日付の宮内大輔某書状(「民経記」寛喜三年一〇月巻裏文書)に「造内裏用途田尻庄切符一枚、謹以給預候了」と記され、近年田数が減少し年貢納入が困難になっている旨を述べている。暦応三年(一三四〇)一〇月、京都の妙法院は佐々木道誉の放火によって所領関係の証文・書類を焼かれたので、康永三年(一三四四)七月、無品親王家が妙法院門跡の兼帯する所職と堂舎・所領の再確認を朝廷に願出た。その同年七月日付の無品親王庁解(妙法院文書)によると、当庄は綾小路勝安養院などとともに、西園寺公能の弟の円実法眼から実全(公能の息)に譲与され、以後、門跡が相承してきたという。文和二年(一三五三)一〇月付の妙法院当知行目録案(同文書)にも当庄がみえるので、この後も妙法院門跡領として相伝されたことはまちがいない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報