田名村(読み)たなむら

日本歴史地名大系 「田名村」の解説

田名村
たなむら

[現在地名]相模原市田名・上溝かみみぞ中央ちゆうおう五―六丁目・横山よこやま一―四丁目・同六丁目・清新せいしん六―八丁目・南橋本みなみはしもと三丁目

西北は大島おおしま村、東南は当麻たいま村と接し、西は相模川を隔てて愛甲あいこう角田すみた村・熊坂くまさか(現愛川町)津久井つくい葉山島はやましま(現津久井郡城山町)に相対し、相模川河岸段丘下の氾濫原にたき久所ぐぞの集落があり、段丘中腹から清水が湧出し「やつぼ」とよばれている。村内を南北に大山道、東西に久保沢くぼさわ道が通り、字四ッ谷よつやで交差する。

和名抄」にみえる高座たかくら郡「塩田郷」は小名塩田しよだにあたるとされる。建保元年(一二一三)の和田合戦で討死した武蔵七党中の小野姓横山党の田名広季(七党系図)は当地出自の武士であろう。天文年間(一五三二―五五)の北条氏綱による鶴岡八幡宮再建に際し当地の二三間余の槻の大木が用いられた(「快元僧都記」天文三年二月条)。小田原衆所領役帳には神尾善四郎「八拾貫文 東郡田奈郷」とある。

当村の草分と称する江成家に伝わった天文一九年から天正一六年(一五八八)に至る北条家朱印状・同伝馬手形・同氏康朱印状(県史三)二一通があり、北条氏支配下の村況がわかる。天文一九年四月一日北条氏が実施した諸郷公事赦免により「田名郷百廿四貫七百九十一文、此役銭七貫四百八十六文」に定められたが、同二一年八月一〇日には六貫三二〇文に減額され、本段銭となった。弘治元年(一五五五)三分の一が増徴され八貫四二七文となった(天正九年八月一七日付の朱印状)。永禄五年(一五六二)九月二四日飢饉のため検見が実施され、段銭が四貫八〇〇文に減額されたが、翌年八月一日には検見を止め、段銭二貫四〇〇文を増徴、未進すれば牛馬を質に取るとされた。ところが七月二五日に大洪水があり(年代記配合抄)、同年と推定される亥九月九日付の朱印状によれば、田奈たな郷の田地の約半分が流失したため、その田にかかる段銭・懸銭の半額が当年限り免除された。

田名村
だなむら

[現在地名]伊平屋村田名だな前泊まえどまり

伊平屋いへや島北部に位置する。伊平屋いひや島を構成する八行政村の一つ。「おもろさうし」巻一三の一七三に「たな」とある。「琉球国由来記」に記される祭祀は公儀祈願所の「城嶽御イベ」「田名ノロ火神」「田名ノヲヒヤ火神」、島中拝所の「アサ嶽御イベ」「三崎嶽御イベ」など。絵図郷村帳に「だな村」とみえる。琉球国高究帳では「田那村」として高頭二〇六石余のうち田一六九石余・畠三七石余。「球陽」尚穆王三六年(一七八七)四月一〇日条に、池田筑登之が比佐志ひさし原の天水田に田名小堀から水溝を引いたこと、狭隘で毒蛇の多い知那古ちなくの道を開幅したことがみえる。同書尚王一五年(一八一八)条には伊礼筑登之などが竹林を初めて設けたこと、佐子富さしぶ浜に製塩所を整備したこと、西原いりばるに通ずる山道を修理したことが記される。嘉慶一五年(一八一〇)の村地船作事の際に田名掟が無利子で米七斗五升を貸与している(同書尚王一七年条)。麻姓田名家が脇地頭(「伊平屋島田名里主所」の下賜)となったが、その任職を伝える乾隆四四年(一七七九)四月一三日・嘉慶一〇年五月一二日・道光一二年(一八三二)一〇月三日・同三〇年一二月六日付の辞令書が残る(田名家文書、県立博物館寄託)。乾隆五二年与論島の船が須武久和すぶくわの外礁に座礁し(「球陽」尚泰王三六年条)、咸豊四年(一八五四)一二月唐船が座礁・難破しているが(同書尚泰王一〇年条)、唐船難破の処理についてはその経緯を記す言上写が伝えられる(伊是名村諸見名嘉家)。咸豊五年の地船訟(船改之覚)によれば、村所有の地船は、三反帆二棚船四艘・二反帆二棚船三艘。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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