玉鉾村(読み)たまぼこむら

日本歴史地名大系 「玉鉾村」の解説

玉鉾村
たまぼこむら

[現在地名]金沢市玉鉾一―五丁目・玉鉾町・入江いりえ一―三丁目・高畠たかばたけ一―三丁目・本江町もとえちよう

入江村の北、犀川下流南岸に位置する。玉戈とも記し、古代加賀郡玉戈郷(和名抄)の遺称地。応永二一年(一四一四)四月一九日、足利義持は奉公衆の倉光藤増丸に本領倉光くらみつ(現松任市)のほかに「玉鉾郷内石丸名田壱町七段拾五代畠九段」などを相伝知行地として安堵している(「足利義持御教書」武家手鑑)。康正二年(一四五六)五月二二日足利義政が同じく奉公衆の大館教氏に安堵した地に、「玉鉾村四分壱」がみえ、「守護押領」との注記があって加賀半国(北加賀)守護富樫成春の押領を受けていた(「足利義政御教書」八坂神社文書)。一方、長禄三年(一四五九)足利義政は倉光光利に藤増丸の所領を還付しており(同年二月一七日「足利義政御教書写」温故古文抄)、当地など倉光氏の相伝所領は一時同氏の手を離れていたらしい。

玉鉾村
たまぼこむら

[現在地名]国府町玉鉾

広西ひろせ村の南東に位置する。「因幡民談記」によれば、かつて地内に「造生寺」があったといい、法花寺ほつけじと接する山辺に寺院跡があるという。拝領高は五三二石余、本免は五ツ四分。伴氏・本城氏・明石氏のほか山田平兵衛・同文之助の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数二八。天保七年(一八三六)の家数三四、作人四一・出奉公人一一・抱奉公人一三・御小人一、牛一七(「作人帳」井上家文書など)。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高五八〇石余(うち畑高一八石余)で、永荒を引き年開二六石余などを加えた都合高は六一七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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