狭野神社(読み)さのじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「狭野神社」の意味・読み・例文・類語

さの‐じんじゃ【狭野神社】

石川県能美市佐野町にある神社。旧県社。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)・豊受比咩命(とようけひめのみこと)。毎年五月三~五日の九谷茶碗祭は有名。

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日本歴史地名大系 「狭野神社」の解説

狭野神社
さのじんじや

[現在地名]高原町蒲牟田

蒲牟田かまむた地区の西方、狭野(佐野)にある。旧官幣大社別宮。祭神は神倭伊波礼彦天皇・吾平津姫命・天津彦彦火瓊瓊杵尊・彦火火出見命・彦波瀲武草葺不合尊・木花開耶姫命・豊玉姫命・玉依姫命。旧称は狭野大権現社。社記では創建の時期は孝昭天皇の時代と伝える(三国名勝図会)。もともとは「三代実録」天安二年(八五八)一〇月二二日条などにみえる「霧島神」で、康保三年(九六六)霧島山に入った性空が山中で修行ののち建立した霧島権現六社の一つ。江戸時代末までは天津彦彦火瓊瓊杵尊・彦火火出見命・草葺不合尊・木花開耶姫命・豊玉姫命・玉依姫命の六神を祀っていたことから霧島六所権現ともいう。別当寺神徳しんとく院。

文暦元年(一二三四)一二月二八日の霧島山大噴火により当社・別当寺とも焼失、そのため社寺ともに東霧島つまきりしま勅詔院(現高崎町)へ移された。天文一二年(一五四三)島津貴久の命により神徳院主舜恵が高原に行廟を営み、狭野権現の神輿を移したという(三国名勝図会)。霧島六所大権現下宮宝殿は慶長六年(一六〇一)一一月二六日に島津忠恒(家久)により建立された(「霧島六所権現造立棟札」旧記雑録)。同一五年家久は狭野の古跡がなくなることを危惧し、神徳院主宥淳にとくに命じて狭野原の旧地である現在地に祠廟・寺を建立させ、同一七年一二月二八日に狭野神体を高原から移したという(三国名勝図絵)。寛文八年(一六六八)七月二三日付の神徳院教貞坊差出(「公私留帳」狭野神社文書)によると、霧島山六所大権現高原宗廟は神徳院の保有で、「狭野之宮」というのはないと藩寺社奉行所に報告されている。

狭野神社
さのじんじや

[現在地名]寺井町佐野 向山

旧県社。創祀時期や由緒は不詳だが、土地の伝えではかつては現在地の東方山中にあったといい、「延喜式」神名帳に載る能美郡の同名社に比定される。現祭神は素盞嗚命・天照大神・豊受比命の三柱だが、天照大神・豊受比命は明治四一年(一九〇八)に、佐野さのにあった神田かんだ神社を合併したため加えられたもの。また明治神社明細帳をみると、祭神として狭野大神と記されている部分に朱で素盞嗚命と記され、頭注に「朱書ノ通改正」とある。

狭野神社
さのじんじや

[現在地名]都城市都島町

たけした橋の南西、旧都城西城の曲輪跡内にある。旧村社。祭神は神武天皇。初め竹ノ下橋の北、大淀川西岸にあり、須久束すくつか大明神とよばれていた。創建年代は不明だが五十町ごじつちよう村第一の古社とされる。大永六年(一五二六)火災で焼失し、北郷忠相により再建された。その時の棟札には「日州島津御荘、南郷都城ノ宗廟須久束大明神」と記されている。別当は勝蔵院、社司は神応寺が勤めた(三国名勝図会)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狭野神社」の意味・わかりやすい解説

狭野神社
さのじんじゃ

宮崎県西諸県(にしもろかた)郡高原(たかはる)町大字蒲牟田(かまむた)に鎮座。祭神は、神倭伊波礼彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)(神武(じんむ)天皇)を主神に、吾平津姫命(あひらつひめのみこと)、天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほににぎのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を配祀(はいし)する。社伝によれば、孝昭(こうしょう)天皇の代に、神武天皇の降誕の地に社殿が創建されたのが、当社の創祀という。霧島嶽(きりしまだけ)の噴火のたびに遷座されたが、1610年(慶長15)旧狭野の地に遷座、その後、島津氏により社殿の造営改築、また社領の寄進が行われた。1873年(明治6)に県社、1915年(大正4)官幣大社宮崎神宮別宮に指定された。霧島六所権現(ごんげん)の一つ。例祭は10月23日。

[落合偉洲]


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