牟礼宿(読み)むれいじゆく

日本歴史地名大系 「牟礼宿」の解説

牟礼宿
むれいじゆく

[現在地名]牟礼村大字牟礼

慶長一六年(一六一一)九月三日、松平忠輝北国脇往還諸宿に出した伝馬条目(「伝馬宿書出」大古間共有)によって正式に宿場として成立した。しかし、これより先、上杉景勝の北国道整備を通じ、牟礼宿は重視されてきた。

牟礼宿から大古間宿まで一里三〇町、柏原宿まで二里、牟礼村から善光寺町宿まで二里半、なお神代かじろ道の神代宿まで二里である。弘化二年(一八四五)の牟礼宿絵図(上水内郡誌)によれば、両入口に枡形があり、鳥居とりい川が西北を囲繞して流れ、東の枡形手前で北へ一本の道が分岐し、鳥居川を渡ってから鳥居川左岸を下る浅野道(谷筋道)となり、更にこれから芋川いもがわ道・倉井くらい道が分岐している。また、東の枡形には、黒川くろかわ村から城山じようやまと宿場との間を流下する八蛇やじや川が街路を横断して鳥居川に合流している。

また、作成年次不詳ではあるが、別の同じ頃の絵図(徳満寺蔵)によれば、伝馬役数は五二軒、年貢免除の屋敷高四四石八斗二升一合と算出できる。これらの伝馬役は半役・二分五厘役などに細分化され、家数も六六軒に増え、このほか西口に一八軒、東口に一七軒計三五軒が伝馬役外となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報