牟岐浦(読み)むぎうら

日本歴史地名大系 「牟岐浦」の解説

牟岐浦
むぎうら

[現在地名]牟岐町牟岐浦

現町域の南部中ほどに位置し、南は海に臨む。南流してきた牟岐川が当浦で入江に注ぐ。沖に出羽てば島・小津こつ島・島・おお島が浮ぶ。天正一六年(一五八八)の土佐国夜須庄地検帳(長宗我部地検帳)の一筆に「福田久兵衛ヲ永代ニ買取、阿州於無木卅日御番仕給ニ持ト有」と記される。慶長四年(一五九九)五月の廊之坊諸国旦那帳(潮崎稜威主文書)では「むきい かいふ」、慶長年間のものと推定される国絵図に「むき」とみえる。正保国絵図では「牟岐浦」として高二千一〇五石余で、また牟岐のうちとして東牟岐浦・山戸やまだ村・せき村・なか村・河内こうち村・赤水あかみず村・内妻うちづま村・奥内妻おくうちづま村・なだ村・辺川へがわ村・たちばな村・喜来きらい村が記され、沖に二里半の「ては島」、三里の大島が描かれる。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方一千七五七石余・畠方三四七石余、旱損・芝山・生山の注記がある。また東牟岐浦など一二ヵ村を枝村とする。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高二千一一七石余。「阿波志」によれば、土田は陸田三町二反余、家数三五三・人数一千五五〇。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高三〇石余。天保郷帳では高二千二九五石余。旧高旧領取調帳では蔵入地のみで高五五石余。

天明元年(一七八一)牟岐東浦で出火、家二七三軒が焼失したという(阿淡年表秘録)。文化九年の棟付帳(牟岐町史)では西浦が家数一八六のうち庄屋小家二・触使六・加子八三・見懸人一五・来人五・部屋二などで、人数八五一。同じく東浦が家数一〇四のうち加子六三・見懸人四〇などで、人数四九〇。天保四年(一八三三)兵庫表で買上げた他国米二〇〇石を御米蔵に囲い置いている(「心得方通達写」民政資料)。嘉永七年(一八五四)一一月四日の大地震とそれに伴う津波があり、満徳まんとく寺では過去帳などの記録類や神仏などを残らず薬師堂に運び込んだが、翌五日さらに大きな地震が起きて諸人あわてて山々に登って東西を失うほどであったと伝え(「満徳寺記録」海部郡誌)、西牟岐・中村・内妻村を合せた被害は流家六四六・潰れ家三四・潮込家八四・流土蔵二四・流失納屋馬屋一六七、死人二三、流失漁船一四二・傷漁船四一・流失廻船四一・傷廻船五・諸流失網二三帖三部などであったという(震潮記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報