片桐村(読み)かたぎりむら

日本歴史地名大系 「片桐村」の解説

片桐村
かたぎりむら

[現在地名]中川村大字片桐・葛島かつらしま飯島いいじま町大字七久保ななくぼ、下伊那郡松川まつかわ町大字上片桐かみかたぎり

東は天竜川を境に大草おおくさ村と相対するが、南対岸の葛島を含む。西はこまヶ岳の南の山続きの年上ねんじよう(念丈岳)まで。北は本郷ほんごう石曾根いしぞね(ともに現飯島町)に接し、その西方与田切よたぎり川が境をなしている。南は松川をもって大島郷に隣接する。

「延喜式」諸国駅伝馬の信濃国駅馬の項に「賢錐」とあり、「吾妻鏡」の元暦元年(一一八四)六月二三日条に、

<資料は省略されています>

とある。賢錐かたぎりは高山寺本の「和名抄」には堅錐と書かれているが、中世においてはほとんど片切で、後片桐が用いられている。

片切氏はうえだいら城(現箕輪みのわ町)に発祥した伊那源氏の分流で、「尊卑分脈」によれば平治の乱に義朝に属した片切景重は名子氏の先祖になっている。

嘉暦四年(一三二九)の諏訪社上社の大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)によれば外垣七間の課役を務め、諏訪御符礼之古書(諏訪大社上社文書)にも頭役を奉仕している記事が散見する。

片桐村
かたぎりむら

[現在地名]見附市片桐町

芝野しばの村・江向えむかい新田の東。集落は自然堤防上にある。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「かたきり」がみえる。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に「片切村」とあり、田之尻たのしり梅田うめだ両村と合せ四八六石余。寛永五年(一六二八)検地帳(片桐区有文書)では田一二町七反余・分米九三石一斗余、畑一四町三反・分米三二石五斗余。他村からの入作者が田方に七人、畑方に九人いる。地字くねからミの耕地はすべて上畑で屋敷持の名請人が所有している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報