熊本洋学校跡(読み)くまもとようがつこうあと

日本歴史地名大系 「熊本洋学校跡」の解説

熊本洋学校跡
くまもとようがつこうあと

[現在地名]熊本市古城

隈本古くまもとふる城跡の北部中段の高台にあった洋学校。明治三年(一八七〇)知藩事細川護久、弟の大参事長岡護美の下で、横井小楠の流れをくむ実学党藩政は、肥後維新の一政策として本格的洋学校の設立を計画した。小楠の甥大平が尽力し、野々口為志とともに東京大学御雇教師フルベッキの仲介を経て、アメリカの北軍退役将校L・L・ジェーンズを招くことに成功し、同四年開校した。第一回生は五十数人。ジェーンズは月給四〇〇円の高給で迎えられ、長崎の職人をよんで熊本県下初の洋風建築である教師館・寄宿舎を同年完成させた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報