烏山村(読み)からすやまむら

日本歴史地名大系 「烏山村」の解説

烏山村
からすやまむら

[現在地名]世田谷区北烏山きたからすやま一―九丁目・南烏山みなみからすやま一―六丁目・給田きゆうでん四丁目・上祖師谷かみそしがや一丁目・粕谷かすや一丁目・同四丁目・八幡山はちまんやま三丁目、三鷹市北野きたの二丁目

粕谷村の北にある。多摩郡に属する。北は牟礼むれ(現三鷹市)久我山くがやま(現杉並区)、南は上祖師ヶ谷村。甲州道中が南部を東西に通り、玉川上水から上高井戸かみたかいど(現杉並区)で分水した烏山用水が村内を南流して粕谷村へと入っている。品川用水西部を流れ、同じく粕谷村へ入る。南北朝期臨済宗の高僧中巌円月は正安二年(一三〇〇)鎌倉に生れ、幼少時代を「武州烏山」で過ごした(東海一集)。小田原北条氏の家臣高橋氏高は烏山の林に砦を築き、北条氏滅亡後は帰農・土着したと伝える(「烏山高橋系図」高橋家文書)。延徳三年(一四九一)吉良頼高(栴沢寺殿)菩提寺として泉沢せんたく寺が烏山に建てられたが、天文一八年(一五四九)橘樹たちばな上小田中かみこだなか(現神奈川県川崎市中原区)移転した(同年九月大吉日「吉良頼康判物」泉沢寺文書)。同寺の跡には小字泉沢寺せんたくじが残り、正保(一六四四―四八)以前には泉沢寺村として別村であった。

烏山村
からすやまむら

[現在地名]土浦市烏山

右籾みぎもみ村の東に位置し、花室はなむろ川南岸の低地と台地からなる。天正一八年(一五九〇)結城秀康領となり、文禄四年(一五九五)三月二三日に検地が行われた(「常州信太庄烏山村御縄打水帳」酒井和男氏蔵)検地帳は六冊全部が現存する。田畑の面積はほぼ同じで、下田・下畑が圧倒的に多い。続いて慶安三年(一六五〇)四月二日に朽木稙綱によって地詰検地が実施された(「常陸国信太庄烏山村田方地詰帳」同氏蔵)。天保七年(一八三六)七月作製の烏山村絵図(同氏蔵)には、田は早・中・晩稲田と記され、農業用の池や村の北側に上烏山かみからすやま川の用水溝も描かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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