湯田村(読み)ゆだむら

日本歴史地名大系 「湯田村」の解説

湯田村
ゆだむら

[現在地名]湯田町 左草さそう下前したまえ・湯田・湯本ゆもと槻沢つきざわ湯之沢ゆのさわ川尻かわしり草井沢くさいざわ鷲之巣わしのす湯川ゆがわ小繋沢こつなぎざわ越中畑えつちゆうはた野々宿ののしゆく白木野しらきの柳沢やなぎざわ

現湯田町域が村域である。文和二年(一三五三)一一月三日の吉良貞家宛行状(鬼柳文書)によれば「陸奥国和賀郡和賀越前権守行義跡伍分四内、(中略)小国村内中村田在家半分」とみえ、勲功の賞として和賀義光に宛行われている。また同年月日の和賀基義遵行状(同文書)によれば、同じ和賀行義跡であった和賀郡内「湯川尻田在家」を和賀義綱に宛行っている。中村なかむら田在家は当地中村、湯川尻ゆかわしりは当地川尻に比定されている(中村を現沢内村川舟の中村に比定する説もある)。中世には当地と現沢内さわうち村一帯を小国おぐに村と称し、和賀氏が領していた。慶長一五年(一六一〇)六月晦日の南部利直書状(宮古刈屋文書)に「小国金山今月より十五日之分拾五枚ニ遣」とみえ、同一七年八月一一日および同年閏一〇月一一日の南部利直請取状(同文書)に「小国之金山」「小国山」とみえ一三枚の運上があった。近世初頭に採掘されていた小国の金山は、中世の小国村一帯にあったとみられる。湯田の丘陵突端部になか館跡がある。二重の濠をめぐらした主郭が認められる。

湯田村
ゆだむら

[現在地名]宮之城町湯田

宮之城郷時吉ときよし村の北にあり、蛇行しながら南流する川内せんだい川中流域東岸一帯の平地・台地からなる。北は鶴田つるだ神子こうし(現鶴田町)、東は同郷鶴田村および佐志さし広瀬ひろせ村、南と西は鶴田郷柏原かしわばる(現鶴田町)に接する。虎居とらい村から柏原村を経て鶴田村へ向う道が通る。村名は温田ゆだとも記され、河岸近くに湧く温泉(現宮之城温泉)に由来する。延元四年(一三三九)六月日の村田如厳軍忠状(旧記雑録)に「答院温田城」とみえ、六月一日に対岸の柏原を拠点とする南朝方渋谷経重の軍勢が渋谷石見権守(重棟)代らの立籠る湯田城を攻撃し、追落している。翌二日には幕府方の渋谷又次郎入道・同八郎三郎・同彦六、在国司弥二郎・東郷彦三郎左衛門入道、そのほか牛屎うしくそ(現大口市)和泉いずみ(現出水市)山門やまと莫禰あくね(現阿久根市)の軍勢数百騎が同城に押寄せ、一三日まで合戦が続いたのち渋谷又次郎らは敗走した(前掲軍忠状・「和泉実忠譜」同書)。この湯田城跡は南部の旧国鉄宮之城線薩摩湯田駅跡東側にあり、大前氏支流富光氏の代々の居城であったという(「答院記」など)

応永一〇年(一四〇三)一二月一三日、島津元久は入来院重頼と一味同心の盟約を結んだ。

湯田村
ゆだむら

[現在地名]川内市湯田町

高城たき郷の麦之浦むぎのうら村の西、同郷北西部を西流する湯田川流域にある。北西は大久保おおくぼ山で同郷西方にしかた村、南は佐山さやま嶺を隔て水引みずひき網津おうづ村。東には一条いちじよう山がある。紫尾しび山系の西麓が海に入り込む。西は外海に面する。出水いずみ筋がほぼ中央部を南東から西へ横断している。地名は温田ゆだとも記される。薩摩国建久図田帳には高城郡二五五町のうちとして島津庄寄郡の温田浦一八町があり、没官領で地頭は千葉介(常胤)、下司は在庁師高とある。また延慶二年(一三〇九)八月二〇日には温田村内屋敷一ヵ所が国分寺天満宮社頭修理および公私の祈祷のために敷仕所へ宛行われており、同所は苧代・桑代・畠地子等惣万雑公事を停止された年貢二〇〇文の地であった(「郡司藤原・地頭代源連署下文」旧記雑録)。嘉暦三年(一三二八)の新田宮国分氏沙汰証人交名注文案(新田神社文書)には温田地頭代衛門次郎入道がみえる。

湯田村
ゆだむら

[現在地名]東市来町湯田

養母やぼ村の西に位置し、西の一部は海に面している。当地の南部を大里おおざと川が西流し、流域一帯に水田が開けている。出水いずみ筋が通る。建武四年(一三三七)八月一四日夜、当地の赤崎あかさきで南朝方の市来時家と北朝方の延時忠能・在国司又二郎・甑島地頭小川小太郎らが戦った。延時忠義・莫禰成助・権執印俊正の軍忠状が残っている(同年八月日「延時法仏軍忠状」延時文書など)。天文一八年(一五四九)島津貴久の家臣伊地知重常が湯田村のうち皆田代かいだしろ八町などを与えられたという(薩摩国各郡管轄沿革)

江戸時代は市来郷に属した。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳に村名がみえ、高一千二六一石余。「三州御治世要覧」によると延享(一七四四―四八)頃の高一千三一三石余。

湯田村
ゆだむら

[現在地名]えびの市湯田

永山ながやま村の北、北西流する川内せんだい川両岸の河岸段丘上にある。平木場ひらこば(現小林市)から西向して、上江うわえ池島いけじま―永山―湯田から西郷さいごうを経て京町きようまち亀沢かめさわから大隅国吉松よしまつ(現鹿児島県吉松町)に至る川内川南側の道は川南かわみなみ筋といわれた(えびの市史)。江戸時代には加久藤かくとう郷に属した。慶長五年(一六〇〇)島津忠恒領知目録(旧記雑録)に「加久藤 湯田村之内」とみえ、当村内高七六石余などが諸役免除の地として島津忠恒から白鳥山金剛乗院満足まんぞく寺の光厳に与えられている。

湯田村
ゆだむら

[現在地名]南小国町中原なかばる

湯田川沿いに集落が点在する。西は豊後国日田ひた郡、東は中原村に接する。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)には、「かふりかた」として「一所ゆた」「一所中ゆた」とあり、また近世に当村の小村とされる城尾じようのお樋口ひのくちも記され、それぞれ米と豆を負担している。永正一四年(一五一七)五月二日の阿蘇惟豊宛行状(北里文書)で北里次郎左衛門尉は曾祖父以来の忠節によって「湯田三町三段」を宛行われている。

湯田村
ゆたむら

[現在地名]小俣町湯田

小俣村の西、村の南にある。伊勢平野とは大仏だいぶつ山の小丘でさえぎられ、相合そうごう川の氾濫平野が形成されている。古代の度会郡湯田郷(和名抄)の中心地と考えられ、条里遺構が認められ、じゆうつぼの字名が残る。斎王が斎宮(現多気郡明和町)から参宮する折は、多気たき竹川たけがわ(現明和町)から湯田を経由したという(五鈴遺響)。「神鳳鈔」は大庭おおば御薗・佐奈さな御薗・六屋部むやべ御薗に湯田と注を付しており、伊勢神宮に近く、傍らに離宮院もあることから、これら御園が設置されたのであろう。湯田郷は光明寺古文書の応徳元年(一〇八四)二月一三日の掃守某畠地売券写にみえるのをはじめ、同文書には湯田郷関係のものが多数あるが、かなり広域であったと思われ、承久二年(一二二〇)九月七日付の物部貞弘田畠等処分状案に「野□四段内一段、在度会郡湯田郷湯田野」とみえるのが当村辺りかと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報