原城跡(読み)はらじようあと

日本歴史地名大系 「原城跡」の解説

原城跡
はらじようあと

[現在地名]南有馬町大江・浦田

有明海に臨む岬(原の島・ハルの島、標高三一・五メートル)に築かれた中世の城館の跡。国指定史跡。史料上ははる城とも記され、また志自岐原しじきばる城・日暮ひぐらし城・有馬城とも称される。明応五年(一四九六)有馬貴純(有馬氏八代という)が築城したと伝え(ただし貴純の没年は明応二年ともいう)日野江ひのえ(現北有馬町)に代わる規模の大きい城館が必要であったとされるが、有馬氏の時代には当城は日野江城の支城であったという。また日野江城まで一里にわたって橋が架けられ、北岡の落橋きたおかのおてばしは橋が老朽化して落ちた場所という所伝もある。一五八三年(天正一一年)に有馬城は三度目の火災にあっている(一五八四年一月二〇日「フロイス書簡」イエズス会日本年報、フロイス「日本史」、アビラ・ヒロン「日本王国記」)。慶長一七年(一六一二)有馬晴信は岡本大八事件によって改易とされたが、子の直純は旧領を与えられた。同一九年同氏の日向国あがた(現宮崎県延岡市)への転封に伴い、元和二年(一六一六)松倉重政が日野江城に入るが、これ以前に当城は破却されている。同四年の島原城築城では原城の石材などが利用され、日暮城と称されたという。しかし城跡は寛永一四年(一六三七)に起きた島原の乱で一揆勢の拠点となった。

〔島原の乱〕

寛永一四年一〇月二四日、南有馬の角蔵、北有馬の三吉というキリシタンが捕らえられ、翌二五日に北有馬で代官が殺害された。これを契機に有馬の百姓が蜂起、島原半島の全域にわたる勢いで一揆が起きた。いわゆる島原の乱で、半島から二万四千人余、肥後天草あまくさ島から一万三千人余が結集したとされる(実際は計二万数千人ともいわれる)。同月二六日には島原城を攻撃して落城の危機に追込んだことから、島原藩は参府中の藩主松倉勝家に連絡するとともに近隣の諸大名家に救援を求めたが、幕府の指示を待って動かない状態が続き、その間に一揆は領内の全体に広がっていった。

原城跡
さかきばらじようあと

[現在地名]久居市榊原町中ノ村 赤部谷

北へ湾曲して流れる榊原川の中洲近くに突出た比高三〇メートルの丘陵上にあり、眼下に榊原村を一望する。旧小字名を城山しろやまという。現在は本丸跡のうち、広さ約九アール(二七〇坪)のみが台地状を呈して残っているが、第二次世界大戦末までは周囲に高さ一メートルほどの土手もめぐらされていて、城跡としての景観が整っていた。江戸末期書写の勢州一志郡榊原村榊原信濃守興経古城跡縄張之図(久居市役所榊原支所蔵)によると、城は本丸を中心に、西に二ノ丸、その北に西ノ丸、本丸の東に三ノ曲輪という配置で、本丸は東西一八間、南北三〇間、西側に二つの天守が並んで建ち、北の小天守とみられるほうに井戸が二つ描かれている。

原城跡
ならばらじようあと

[現在地名]御所市大字楢原

葛城山東麓、標高三二〇メートルの丘尾上にある。東・南・北は深い谷で、尾根は東方へ二四〇メートル余り細長く突出、段状に七つの郭が連なっている。台地の東北方に深い谷を隔てた小山の頂上は平地になっていて連郭があり、東・南・北に全長五〇〇メートルに及ぶ空堀の跡をとどめ、西端に三重堀跡がある。

楢原氏は大和六党の一つ南党で、すでに鎌倉時代末には伴田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納している(春日神社文書)。「国民郷士記」には「楢原山城楢原小太郎」とみえ、また「大倭武士春日大宿所勤番次第曰南等楢原大宿所五ケ年勤之葛上郡金剛山麓住三万石」(大和志料)とある。

原城跡
はらじようあと

[現在地名]鹿島市大字山浦字本城

西蔵さいぞう寺の背後にそびえる標高三三三メートルの城平じようびら山頂に築かれた中世の山城で、本城ほんじようという地名はこの城に基づくものであろう。築城の経過などはいっさい明らかでないが、藤津大村氏の一居城であったと考えられる。文明九年(一四七七)蟻尾ありお城に拠った大村家親は、小城おぎの千葉氏に包囲されて落城し、本城に逃れたと伝えられるが、おそらく原城へ退いたものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「原城跡」の解説

はらじょうあと【原城跡】


長崎県南島原市南有馬町乙にある城跡。島原半島の南部、有明海に面した岬の丘陵上に位置する。周囲約3km、西と北は低湿地に囲まれ、東は有明海の断崖絶壁という天然の要塞で、本丸・二の丸・三の丸・天草丸などで構成されていた。1496年(明応5)、有馬氏が居城であった日野江城の支城として築城したといわれ、有馬氏が日向国(ひゅうがのくに)に転封されると1616年(元和2)に松倉氏が日野江城に入った。一国一城令が出されており、松倉氏は不便な日野江城を放棄して島原城を築いたので、原城も廃城となり、石垣や建物は転用されたという。そして、松倉重政・勝家父子が島原城建設にともなう財政逼迫(ひっぱく)による苛政や厳しいキリシタン弾圧を行ったことで、1637年(寛永14)、「天草の乱」と呼ばれる農民一揆が起きた。島原城も襲撃されたが守備も固く、戦線は膠着し、天草の群衆と合流した一揆勢約3万7000人が廃城となっていた原城を修築して立て籠もった。一揆勢は天草四郎を総大将として、12万人ともいわれる幕府軍と3ヵ月に及ぶ籠城戦を展開したが、ついに壊滅し、原城は徹底的に破壊された。1938年(昭和13)に国の史跡に指定され、その後の発掘調査によって、本丸跡からは弾丸や十字架ロザリオの珠などが出土した。島原鉄道島原駅から島鉄バス「原城前」下車、徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「原城跡」の解説

原城跡

(長崎県南島原市)
長崎県新観光百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報