浜松城跡(読み)はままつじようあと

日本歴史地名大系 「浜松城跡」の解説

浜松城跡
はままつじようあと

[現在地名]浜松市松城町・元城町・元目町・神明町・紺屋町・下池川町・鹿谷町

三方原台地の南東端にあたる河岸段丘上に築かれた平山城。東海地方の要衝、徳川家康ゆかりの城として重視された。城域は南北五一〇メートル・東西五〇〇メートルほどに及んだ。北側には断崖と低湿地が広がり、東から南側には水堀が巡っていた。標高約四〇メートルの天守曲輪から東に向かって階段状に本丸・二の丸・三の丸が配されていた。

〔築城〕

永禄一二年(一五六九)秋から見付みつけ(現磐田市の城之崎城跡か)を普請していた徳川家康は、元亀元年(一五七〇)六月(「家忠日記増補追加」は一月とする)織田信長の意見もあって当地引馬ひくま(曳間城)に移り城普請に着手、惣廻りに石垣を築き、長屋を建てて遠江・三河両国の家臣団が移住、家康は九月一二日に入城したという(「当代記」、「浜松御在城記」内閣文庫蔵など)。引馬城は蔵屋敷や侍屋敷として取込まれた(「遠州浜松城」蓬左文庫蔵など)。同年七月、家康は上杉輝虎に太刀と浜松城図を贈ったといわれる(武徳編年集成)。初期の築城は倉橋宗三郎・木原吉次・小川家次などが普請奉行であったとされる(寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜)。翌元亀二年八月には当城に観世宗雪入道元忠・同左近大夫を招き、家康の長男信康の元服を祝い能が興行された(当代記)。その後「家忠日記」天正五年(一五七七)一〇月二二日条などに浜松普請とみえるのをはじめ、同九年九月にかけて増改築が繰返された(同書)。同一四年一二月に徳川家康は駿府城に移るが、この間当城は徳川領国の政治・経済の中心地となった。家康が駿府城に移ると当城は土岐(菅沼)定政の預かりとなった。同一八年に入城した堀尾吉晴が大規模な改修を行ったことは、近年の調査から判明した。

〔城郭の様子〕

近世前期の様子を示すといわれる浜松城絵図(浜松市博物館蔵)によると、城郭南に大手門が位置し、上級家臣の屋敷地を北に進むと東側に三の丸、西側に二の丸がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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