流求国(読み)りゆうきゆうこく

日本歴史地名大系 「流求国」の解説

流求国
りゆうきゆうこく

七世紀の中国の史書隋書」巻八一列伝第四六東夷の中の流求国伝にみえる国名。巻六四の列伝第二九の陳稜の個所にも流求国・流求人に関する記述がある。「隋書」流求国伝によれば流求国は建安郡(福建省北部)の東、水行五日のところ、また義安(広東省潮州)から高華嶼に至り、そこから東行二日にして嶼に至るが、流求はさらに一日行ったところにあるという(ただし陳稜伝は義安を出発して一ヵ月余にして至るとする)。こうした「隋書」にみえる流求国について、これまで台湾説、沖縄説、台湾・沖縄を含む島嶼総称説、台湾南部説などが出されているが、いまだ定見はない。ただ大業四年(六〇八)に朱寛が流求から持帰った「布甲」を見て、当時入貢中の倭国使が夷邪久国の人が用いるものだと言ったと記されており(「隋書」流求国伝)、このことから流求が「日本書紀」にみえる掖玖(南の島々の総称)同一と認識されていたとみることもできる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報