掖玖(読み)やく

日本歴史地名大系 「掖玖」の解説

掖玖
やく

夜勾・夜久などにもつくる。古代において初め南西諸島総称、のち屋久島をさす呼称として用いられたと考えられる。「日本書紀」推古天皇二四年三月条および七月条に「掖玖人」、同年五月条に「夜勾人」とみえ、この年の三月から七月にかけて三回にわたって掖玖人(夜勾人)の計三〇人が「帰化」あるいは「来之」したことが記されている。彼らは朴井えのい(畿内にあったとみられるが不詳)に収容されたものの帰還することなく全員死亡している(同書同年七月条)。その後も同二八年八月に伊豆島に二人「流来」、舒明天皇三年に「帰化」(人数不明)した掖玖人の記述があり、その間の舒明天皇元年四月には朝廷も田部連らを掖玖に遣わし、翌年九月に帰朝している(日本書紀)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報