佐伯城下(読み)さいきじようか

日本歴史地名大系 「佐伯城下」の解説

佐伯城下
さいきじようか

[現在地名]佐伯市城東町じようとうまち内町うちまち城下西町じようかにしまち城下東町じようかひがしまち西谷町にしだにまち大手町おおてまち一―三丁目・花園はなぞの中央ちゆうおう船頭町せんどうまち

慶長六年(一六〇一)四月、佐伯に入部した毛利高政によって、佐伯湾に臨む番匠ばんじよう川河口近くのデルタ地帯に形成された佐伯藩二万石の城下町

〔城下町の建設〕

毛利高政が入部した佐伯には文禄二年(一五九三)まで大神姓佐伯氏の拠っていた栂牟礼とがむれ城があったが、内陸山城で領内経営に不向きのため番匠川河口近く左岸の八幡はちまん山の山頂に佐伯城を築いた。築城と並行して城の南東麓の塩屋しおや村の干潟を埋立てて城下町建設を進めた。番匠川河口は同川とその支流堅田かたた川・木立きたち川など流域諸村とそれぞれ舟運で結ばれ、また藩内各浦や諸国から海上交通で入港できる交通の要衝の地であった。まず城の南東麓にあった三の丸を基点に家中屋敷・町家を配した。最初の商人町は栂牟礼城の城下の市を移し、古市ふるいち町と名付けたという。また各地の商人を誘致し、優遇して定着を図った。彼らは安土屋・阿波屋・伏見屋など出自地を屋号としている。初期の城下町割については不詳だが、町場の拡張により一七世紀中頃には内町・船頭町が成立、りよう町と称した。

〔城下町の整備〕

元禄一二年(一六九九)就封した佐伯藩六代藩主毛利高慶(高定)は同一四年国入りし、沈滞していた藩政の刷新に努め、城下整備を進めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報