泉水村(読み)せんずいむら

日本歴史地名大系 「泉水村」の解説

泉水村
せんずいむら

[現在地名]中央区今井町いまいちよう・今井一―三丁目

今井村の南にあり、西方は江戸湾に面する。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に泉水五郎右衛門跡分として泉水とあり、田一町一反・分銭二七四文とみえる。千葉氏の勢力下の当地地名を名乗る泉水氏がいたことが知られ、同じく泉水三兵衛入道分の田二反(分銭二〇〇文)、泉水太郎二郎入道分の田一丁七反半(うち二反は御料所)が造営料の対象となっていた。また泉水兵庫入道は「いつみ」(現緑区)に田一丁を所持していた。集落は房総往還沿いに営まれるが、もとは藪台やぶだいに住していたとされ、文禄三年(一五九四)海岸近くに移住した当時は家数一三ほどで、寛文一〇年(一六七〇)検地を受けた頃は同四〇であったという(「今泉地録集」水野家文書)

泉水村
せんずいむら

[現在地名]大多喜町泉水

西之部田にしのべた村の北方、大多喜城下町北西の丘陵地に立地。夷隅川の支流鍛冶かじ川の水源地。泉水寺せんずいじ村ともいった。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に泉水村とみえ、高三〇一石。慶長二年(一五九七)の伊北庄泉水寺村御縄打水帳写(泉水区有文書)では田五町一反余・畑二町五反余。江戸後期の御収納米書上写(同文書)では田一三町四反余・畑九町五反余。同五年の大多喜藩領分高付帳(大木家文書)では高三〇一石余で、幕末まで同高。領主変遷は城下七町に同じと思われる。当村の高一〇〇石は城下しん町の良玄りようげん寺領であった。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数七一。万延元年(一八六〇)年貢は米八五石余・永一二貫余(「御収納米書上写」大木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報