河原田村(読み)かわはらだむら

日本歴史地名大系 「河原田村」の解説

河原田村
かわはらだむら

[現在地名]一宮町河原田

揖保いぼ川支流の高野たかの川と阿舎利あじやり川の流域にまたがり、南は三方町みかたまち村。高野峠を越えて上野うえの(現波賀町)に至る道が通る。慶長国絵図に「川原田」とみえる。領主変遷生栖いぎす村と同じ。正保郷帳に河原田村とみえ、田方二〇六石余・畠方七五石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には田一〇町九反余・畑一一町七反余、家数四一・人数二三四、馬一〇・牛三六、小物成は楮役二八匁・桑役(真綿)四貫五〇匁余。

河原田村
かわらだむら

[現在地名]山都町三津合みつあい

船岡ふなおか村の南西阿賀川の南岸に位置し、北は同川を境に広野ひろの村など、西は宮月みやづき村。河沼郡坂下組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに河原田とみえ、高三八石余。正徳四年(一七一四)の検地名寄帳(真部家文書)によると高一八七石余、うち本田は高一四二石余・反別一八町五反余、新田は高四四石余・反別一一町九反余。寛政五年(一七九三)の分限帳(斎藤家文書)では家数一五(竈数一四)・人数六一。山役金一分・同銀三匁六分八厘、紙役中判六束(ただし御用捨)、漆木役一四九本などを負担していた。「新編会津風土記」では家数一四、鎮守は山神社。文化一五年(一八一八)の村日記では高一八九石余。

河原田村
かわらだむら

[現在地名]豊前市河原田

永久ながひさ村の南、岩岳いわたけ川中流域左岸に位置する。江戸時代は小倉藩領。寛政七年(一七九五)の村々明細帳(友枝文書)によれば免六ツ五朱、高五五石余、反別田九町七反余・畠一町四反余、家数一六、うち本村一四・下河原田二、人数八四、牛一・馬一〇、薪馬札一・薪歩行札二、村上むらかみ池がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報