水無瀬庄(読み)みなせのしよう

日本歴史地名大系 「水無瀬庄」の解説

水無瀬庄
みなせのしよう

現島本町の東大寺とうだいじ辺りを中心とした奈良東大寺領の庄園。天平勝宝八年(七五六)一二月一六日勅施入によって成立。この時作製された摂津国島上郡水無瀬庄図(正倉院蔵)によると、庄の中心部は畑で、「屋」が四軒、「倉」が一軒建っており、西部に「谷田」が散在し、南部は「治田」「口分田」が散在している。立庄の時期は聖武太上天皇が没した年で、施入に先だつ同年六月には、翌九年、東大寺において国忌の御斎会を行うことが決定されている。当庄ほか四庄がこの時期に勅施入されていることは、これら五庄が、聖武太上天皇の死と、それに伴う御斎会に深いかかわりのあったことを推測させる。そのなかで当庄および猪名いな(現兵庫県尼崎市)については交通の要衝という地理的環境を重視すべきであろう。水無瀬庄は庄倉地すなわち物資運搬の中間基地として、御斎会の前年に東大寺に勅施入される理由があったと考えられる。勅施入される以前は摂津職の管轄する船津であったのであろう。

平安時代に入ると、当庄域は畑地水田化が進み、港津としての機能とともに一般の庄園所領としての性格をもつようになっていった。長元二年(一〇二九)水無瀬庄司から東大寺に提出された報告によれば、当時の水無瀬庄田は、島上しまかみ郡二条一里内の二一ヵ坪に点在する合計八町六反一五〇歩の田地からなっていた。同年、新任国司菅原為職は前任国司以来の国司免判をくつがえして、この地域に国衙収納使を派遣し、水無瀬庄田を請作していた「貧弊之田堵」から強制的に所当官物・臨時雑役収奪した。現地から報告を受けた東大寺はただちに国司菅原為職あてに東大寺牒を送り、その停止を要請した。これに対して菅原為職は東大寺の要請を認めて国司免判を与えたので、ようやく東大寺は旧公田・旧左京職田などを東大寺領水無瀬庄田として確保、維持することに成功した(長元二年閏二月一三日「東大寺牒案」東大寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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