武蔵郷(読み)むさしごう

日本歴史地名大系 「武蔵郷」の解説

武蔵郷
むさしごう

現武蔵町全域と国東町治郎丸じろまる綱井つない重藤しげふじ地区および安岐あき両子ふたご富清とみきよ糸永いとなが地区に比定される。宇佐宮大宮司家が領家職を帯する宇佐宮領の庄園。以東・以西・以東新庄・以西新庄に区分される神領の以東に属し、平安時代末期以来の郷司が戦国期まで確認される。「宇佐大鏡」に「武蔵郷 田数三百五十丁」とみえる。豊後国弘安図田帳・豊後国弘安田代注進状ともに三〇〇町となっており、うち本郷二五四町八段・久吉ひさよし名一六町・重藤名八町・池内永吉いけのうちながよし名二一町、地頭は本郷と久吉名・重藤名は豊後守護大友頼泰、池内永吉名は木工助景元。年月日未詳の宇佐宮神領次第案(到津文書)には「仁治二年散田帳云」として「武蔵郷六十四名」とあるが、その実態は不明。史料からは末光すえみつ名・久末ひさすえ(村)菊松きくまつ名・手野田てのだ徳代とくだい名・得永とくなが麻田あさだ村・由留木ゆるぎ村・池田中薗いけだなかぞの名・武蔵余むさしよ名・糸原いとはるなどが抽出できる。これらが仁治二年(一二四一)時点に存在した確証はない。このうち武蔵余名は天文一八年(一五四九)正月一二日の国東郷等大工職源董次覚書(今富文書)に「余名百町」とみえるが、この文書は検討を要する。

安元年中(一一七五―七七)から下宮造替料所とされ(一〇月一五日「永弘重行書状案」永弘文書)、宇佐宮太大工小山田貞遠が文治年間(一一八五―九〇)に作成利用した宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)によると、若宮鳥居内置路甃二丈ほか二件が豊後一国役分として割当てられている。以後この指図は国貞・為貞・貞行に相伝されており、貞行の利用年代は弘安年間(一二七八―八八)となっている。一部に加筆がみられる。年月日未詳の造宇佐宮課役注文案(到津文書)には安岐・武蔵両郷役として御服所とみえる。また禰宜所帯分の御供田・得分免田・散在田畠などを不輸神領として再認する旨の外題安堵が、元暦二年(一一八五)三月追討使源範頼から与えられており、安岐郷・武蔵郷内に禰宜免田八町があった(「大神安子等連署解状案」益永文書)。免田の存在は前掲宇佐宮神領次第案でも確認できる。宇佐宮最大の祭礼である行幸会では椿つばき八幡社の鎮座する武蔵郷の海岸まで綾御船が出され、さらに当郷への狼藉については政所祓が義務付けられている(弘安三年九月二六日「宇佐大宮司家御教書」永弘文書)

当郷地頭職は守護大友頼泰らをはじめとし、建武二年(一三三五)一〇月一七日の大友貞載書下案(永弘文書)に武蔵郷御代官水永某がみえ、重藤・久吉両名は大友惣領家の当知行地となっている(貞治三年二月日「大友氏時所領所職等注進状案」・永徳三年七月一八日「大友親世所領所職等注進状案」大友文書)

武蔵郷
むさしごう

和名抄」所載の郷。国東郡六郷の一つ。「国造本紀」(卜部兼永本)によると成務天皇の時代、吉備都命六世の「午佐自命」が国前国造に任じられたとするが、「午佐自命」については「牟佐自命」とするものもあり(渡会延佳校本「鼈頭旧事紀」など)、牟佐自を「むさし」とよんで、当郷に関連するとする説もある。

「宇佐大鏡」によると奈良時代に八幡宮(宇佐宮)に施入された封戸(三国七郡御封)のうち、国崎くにさき郡六五烟は「安岐・武蔵・来縄郷」に置かれていた。安元二年(一一七六)二月日の八幡宇佐宮符(奈多八幡縁起私記)で宇佐宮は当郷司ほかに対して行幸会「綾御船水手」(各郷二人ずつ)参勤を求めている。元暦二年(一一八五)三月日の女禰宜大神安子等連署解状案(益永文書)によると宇佐宮若宮禰宜免田一六町のうち豊後国八町分は当郷や安岐郷のうちに散在していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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