武田信長(読み)たけだ・のぶなが

朝日日本歴史人物事典 「武田信長」の解説

武田信長

生年生没年不詳
室町時代前期の武将。甲斐国(山梨県)守護武田信満の次男。通称八郎。右馬助。応永24(1417)年,上杉禅秀の乱に加担した父信満が追い詰められて自害したのちも甲斐にあって,鎌倉府と結んで勢力の伸張を図る一族逸見氏に対抗した。数年におよぶ戦いに勝利したものの,同33年,鎌倉公方足利持氏の攻撃を受け,敗れて鎌倉府に出仕。次いで守護代跡部氏が力を伸ばしてくると,永享5(1433)年帰国し,これを排除すべく戦ったが敗れ,駿河から京都に逃れた。持氏が幕府反旗を翻した同10年の永享の乱,およびそれに端を発する同12年の結城合戦では,いずれも幕府側に属して功を立てている。のち上総(千葉県)に土着し,上総武田氏の祖となった。<参考文献>『鎌倉大草紙』,磯貝正義『武田信重

(堀内亨)

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世界大百科事典(旧版)内の武田信長の言及

【庁南氏】より

…上総の中世武家。長南氏とも書く。鎌倉時代,桓武平氏上総氏の一族に庁南氏がいるが詳細は不明。長福寿寺(長南郡三途台(さんずのだい)。現,千葉県長生郡長南町)蔵1490年(延徳2)良源座像墨書銘に,寄進者〈上総中務大輔沙弥道歳長南次郎平常秀〉と記されている庁南氏は,その後裔であろう。 この平姓庁南氏のほか,室町~戦国時代には甲斐武田氏出身の庁南氏が生まれる。すなわち甲斐源氏武田信満の次男信長は1456年(康正2)庁南・真里谷(まりやつ)両城を築き,庁南城(現,長生郡長南町長南)を自身の,真里谷城(現,木更津市真里谷)をその子信高の居城とした。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」