横須賀城下(読み)よこすかじようか

日本歴史地名大系 「横須賀城下」の解説

横須賀城下
よこすかじようか

[現在地名]大須賀町横須賀・西大渕にしおおぶち山崎やまざき

横須賀藩主の居城横須賀城の城下町。北は小笠山より南に延びる山地、南は遠州灘に続く入海に臨んで築かれた横須賀城の東側、一部は西側の平坦地に形成された。

〔城下町の形成〕

「遠淡海地志」によれば、応仁二年(一四六八)遠江守護斯波義廉が当地を馬継ぎの宿場と定めたので三社権現(現三熊野神社)の社前に町場ができ、三社市場さんじやいちばと称されたという。天正九年(一五八一)高天神たかてんじん(現大東町)を落城させて武田勢を一掃した徳川家康は、以降も横須賀城に大須賀康高を配して一帯を支配させた。同一六年康高の跡を継いだ大須賀忠政は三社市場の町場を核にして城下の町割を行ったという。ただ同一九年には忠政が移封するので、城下町の形成がどれほど進んだのかは不詳。忠政は慶長六年(一六〇一)上総久留里くるり(現千葉県君津市)から転じ、五万五千石を与えられて再び横須賀城に入った。この忠政時代に城下町の拡充整備が進められたと思われる。三社市場の地のほん町を東西に拡充して東本町・中本町・西本町の三町を立て、横須賀城の南にあった片側町を城の東に移転させ、その町の東部を東新ひがししん町、西部を西新町としたという。かつての西新町の地は横須賀城築城時には材木が積まれ、工匠の小屋が建てられていたという。また城の南東、入海沿いにあって慶長以前より製塩を業とする者の人家が並んでいた地(東新町・西新町の南)には東田ひがした町・西田町が立てられ、軍全坊ぐんぜんぼう権現を祀っていた地(東新町の東)には軍全町を立てたという。この際普請をするものには竹木を与え、奥行一六間、間口は望み次第の土地を与え、地子・諸役を免除する布令を出して町づくりを推進したという。なお家中屋敷町(侍町)は城の西方の横砂よこすな谷口やぐち通、坂下さかしたなどに配置したという(「遠淡海地志」「郷里雑記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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