桜馬場(読み)さくらばば

日本歴史地名大系 「桜馬場」の解説

桜馬場
さくらばば

[現在地名]長崎市桜馬場一―二丁目

戦国期末、長崎開港の頃は長崎純景が春徳寺しゆんとくじ山に居城し、家人は桜馬場に扶持していたという(長崎根元記)。江戸時代は長崎村の馬場村のうちで、その北西部の一帯を占める。長崎市中と接する。真言宗の大生山宝正院威福いふく寺は、慶長一二年(一六〇七)長崎市中の東中ひがしなか町に創建された天満宮前身とし、同一五年に八幡やはた町に移り、元和九年(一六二三)桜馬場に移建、元禄八年(一六九五)山号・寺号を許されたという。慶長九年唐からはじめて煙草が日本に伝えられ、「桜の馬場」に植始め、喫煙が行われるようになったというが(奥富士物語)伝来は慶長四年で小川おがわ町が始まりともいう(長崎古今集覧)

桜馬場
さくらばば

[現在地名]高岡市大手町・定塚町・東下関

慶長年中(一五九六―一六一五)に設けられた高岡城の馬場。現在もJR高岡駅前から古城こじよう公園に至る道筋を桜馬場通という。桜馬場の地名は、慶長一五年に太田おおた(現砺波市)宗右衛門に山桜の苗を献上させ馬場の両側に植えたことによるという(「前田利長書状」金子家文書)。馬場は簀立より簀立まで一五〇間、東方簀立の外六一間、西方簀立の外五九間、幅六間・長さ二七〇間。東側は町支配で桜一四一本、西側は郡支配で桜一九〇本(高岡史料)、番人は寛政三年(一七九一)に廃された。桜馬場の風景は元和年中(一六一五―二四)加賀藩家中が金沢へ引揚げた後も残り、延宝年中(一六七三―八一)に枯桜が多くなったため、町奉行の武藤・国府両氏は吉野桜と舞子の松を植えた。

桜馬場
さくらのばば

[現在地名]唐津市桜馬場

そう(内町・外町)の西方、市街地の南西に位置し、西寺にしてら町・山下やました町に隣接する町。藩政初期には馬場があり、宝暦年間(一七五一―六四)の唐津城絵図には矢場と下級武士の屋敷・武家下屋敷が記される。以後、隣接の山下町・坊主ぼうず町とともに下級武士の屋敷町となった。

桜馬場
さくらばば

[現在地名]福山市桜馬場町・胡町・東町三丁目

水野氏時代の馬場で、桜並木があった。阿部氏時代には新馬場ができたので、この地を古馬場ともよんだ。馬見所は正徳年間(一七一一―一六)まではあり、桜の並木も享保(一七一六―三六)の末頃までは少々残っていたが切尽して松並木だけが残った(備陽六郡志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「桜馬場」の解説

桜馬場

(福岡県小郡市)
福岡県文化百選 道編指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報